赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安部小次郎は葛西家臣から赤生津に帰農し、甥の孫が山目で伊達家臣となり一族再起

安部小次郎の祖父外記之助(赤荻)は、軍功により葛西晴信より赤生津に五千苅を与えられた。赤生津東舘に住した安部小次郎も軍功により黄海村に五千苅を与えられたが、葛西没落により赤生津で帰農することとなる。一族は再起を願いやがては、小次郎の兄大学(赤荻)の子豊前の弟讃岐の孫隋波(山目)が、伊達家臣となった。


【葛西氏の興亡・42】

江戸時代の旧家臣

葛西旧臣の中にも伊達家、南部家の家臣となった一族は多い。旧葛西領全てを編入された伊達家はかなりの人数を抱えた。百石以上の家臣を網羅した「伊達世臣家譜」では三五家を数え、百石未満を加えるとその数は更に増すことは確実である。また、南部家では柏山、江刺の両氏とその家臣、富沢や浜田などの有力旧臣もその家臣となった。

 しかし、旧臣の多くは浪人となり、やがて帰農したことは想像に難くない。安永期に仙台藩で編纂された「風土記御用書出(ふどきごようかきだし)」の中に記される「代数有之御百姓書上(だいすうこれありおひゃくしょうかきあげ)」にその姿を見だすことができる。そして、旧臣から帰農したかなりの家が大肝入、肝入といった地域社会の指導者的立場だったことが窺える。

葛西旧臣の家では門口にサイカチの木を植えたという伝承がある。再起を願い再勝の意味を込めたものだという。こうした伝承が残るほどに武士も百姓も関係なく葛西旧臣だったことを誇りにしていたのは間違いない。

石巻の歴史6・242】

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