赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

気仙兵乱文書では、赤生津住人「安部小次郎重綱」あて感状

 

岩手県史3・156】

戦功諸士への加増

気仙兵乱関係文書20余を中心として、その軍功に基く諸士への所領知行の跡を窺うと、この兵乱によって、諸士の所領が、あるいは没収、あるいは加増されたことが知られる。伝えられる文書、家伝によって見ると、登米・本吉・気仙・東西磐井・江刺・胆沢・栗原・桃生の諸郡にわたり、牡鹿郡のみ見えていない。

 この内、気仙郡浜田五千苅は及川彦三郎に、一千五百苅は畠山泰義に、浜田村長部村五千苅は岩淵経義に、勝木田五千苅は佐藤信夏に、二千苅は菅原長定に、今泉五千苅は矢作重常に、広田三千苅は菅原長定に宛行されているのは注意される。浜田氏の所領や、その与党の知行が削減または没収され、軍功のあるものへ加増されたことを物語っているものと知られ、他の郡の場合も大方、その傾向を示すものであろう。胆沢江刺に異動が少なく、流郷を除く西磐井にも異動の少ないのは、この方面に動揺の少なかったためであろう。

 

郡名   郷名  宛行高    軍功者

東山   黄海  五,〇〇〇苅  安部重綱へ

 

参陣諸氏

浜田乱に際し、太守晴信より感状を授けられた諸将士の内、いまに知られているものを示すと左のごとくである。

葛西側(※46名記載)

安部小次郎重綱  天正16年6月7日付晴信黒印 東磐井郡黄海村五千苅宛行、西磐井郡赤生津住人