赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤荻下袋屋敷阿部家20代徹夫氏に聞く、安部小次郎

【言い伝え】

奥州仕置きのころか。石巻から3人で逃げてきた。一人は日形(花泉町)へ行き、一人は赤荻に、一人は花巻へ逃げた。日形といえば黄海が近い、小次郎が葛西晴信からの知行宛行地である。先祖からの伝承である。

赤荻に逃げたのは、2代の上野であろうか。3代の大学であろうか。初代はすでに老齢で戦える年ではない。

初代外記之助は、天正18年の7月に亡くなっている。奥仕置きの1か月前である。討死、戦死でなく老衰であろうとのこと。

3代大学の弟、安部小次郎の子孫は、総本家の系図にはない。赤生津安倍の記載があるのみ。赤生津安部本家の場所を知りたいと。まったく行き来はなかったという。

初代外記之助から17代まで、下屋敷北側の土地に旧墓地がある。墓碑の上には初代には㊀、2代には㊁、3代は㊂と刻まれ、戒名や没年が風化せず刻まれている。

総本家には、鎧や鑓がある。そして、葛西晴信感状がある。

山目の隋波の系図は知らない。子孫も知らず、龍澤寺が管理しているものと思う。