「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて
第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証
岩手県南史談会 高 橋 一 彦
1 概要
豊臣秀吉の奥州仕置による葛西没落後に、葛西旧臣から伊達家の家臣となった一族は多い。百石以上の家臣を網羅した「伊達世臣家譜」では、35家を数え、「磐井郡赤生津村安部」を祖とする阿部隋波(禄高300石)もそのうちの1家としている。
しかしながら、地方史では、赤生津に分立した葛西家臣安部小次郎は、天正18年(1590)葛西没落とともに一関赤荻に帰農したと考えられており、赤生津に21代続く安部家は、史料不足から子孫と特定することが困難であった。
この研究は、現在の赤生津安部一族が、葛西家臣安部小次郎の子孫であることを検証するものである。「赤生津・安部氏の出自を尋ねて」の研究は、故安部徹良氏と兄妹が平成21年から平成27年まで第6報にわたり研究紀要に発表し、一関赤荻への帰農がなかったことを検証したが、小次郎の赤生津移住年代と赤生津安部初代の推定年代を比較する研究方法で一致を試み、意に沿わない結果となった。さらには、安部徹良氏の逝去により研究は中断していた。
安部小次郎が、赤荻や、赤生津にも存在しない人物とならないように、第7報は著者を変え、新たな史料の発見から小次郎が赤生津の祖先であることを検証し、地方史に検討を加えることとした。
新しい史料の発見の一つは、小次郎の感状の発見である。赤生津安部一族の由緒となる安部小次郎宛葛西晴信感状が、赤生津子孫の手を離れ、石巻市住吉町在住の収集家古毛利総七郎(1888-1975)に渡り、現在は石巻市役所毛利コレクションに所蔵されていることが当研究の探索により存在を明らかにした。
二つ目の発見は、赤生津初代を特定するための、世代を遡る計算方法の確定である。初代から12代までの先祖の没年が不明であり憶測であったが、小次郎の実家である「赤荻安部家の戒名碑の初代からの没年」が明らかとなった。これにより、小次郎の赤生津移住年代と赤生津安部初代の一致を試みることができた。
1 はじめに
明治29年に「伊達世臣家譜」が発行されたことにより、伊達家臣に赤生津安部小次郎があることが知られ、現在の赤生津安部家や、小次郎の祖父である赤荻阿部との関連があると見ている研究者が徐々に増えてきた。
例えば、岩手県姓氏歴史人物大辞典では、磐井郡赤生津村(胆沢郡前沢町(奥州市前沢))に、十郎左衛門を祖とする安部家がある。「磐井郡赤荻(一関市)安部外記之介を祖とする」安部家との関係は不明だが、同家は寛永年間までに数代を経ていると伝える。十郎左衛門の跡は兵庫―将監―三四郎―幸内―三左衛門―四郎兵衛―幸内―幸内と継いだ(安永風土記)とある。
これは、伊達世臣家譜の赤生津安倍で、赤荻と赤生津の安倍が関係しているにも関わらず両者を結びつける決定的な史料が不足しているため関係あるにとどめてきたためである。
「赤生津・安部氏の出自を尋ねて」の著者安部良氏は史料の少ない中、手探りでの研究により岩手県南史談会研究紀要への掲載を続けたところ、一関市文化財調査委員から「安部小次郎と安部十郎左衛門は同一人物」という示唆があった。
平成23年7月発行岩手県南史談会研究紀要(23頁)「安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~」では、一関市文化財調査委員小野寺啓氏が、安部小次郎重綱の帰農について次のように述べた。小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未見である。「赤生津安部氏」の祖となったとの所説は史実のように思える。赤荻・下袋安部系図では、帰農したのは安部外記之介の嫡孫・大学(小次郎の兄)である。但し、「安永風土記」の「代数書上」で、竿答したのは五代太郎兵衛からになっている。天正末年、白鳥氏の併有であった東城を、白鳥氏が撤退し一族を白鳥城のみに集結させたというのは事実の様に思われる。葛西氏の支配がゆらぎ始め家臣間の対立が始まったからである。「葛西家臣」の身分の位置づけを、「城主」「城住人」「邑主」「村住」等と記録されている。小次郎の祖父外記之助(介)が、葛西氏から永代宛行われた赤生津の五千刈の領地の「地頭」として、赤荻安部家から分立した。白鳥氏が東城の城主であった時期には、小次郎は東城の「住人」ではなかったのか。白鳥氏の撤退後城主となり、葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか。
これらの考察を踏まえ本研究では、第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論を、「同一人物とみなす」考察への修正に向け、葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの年代的一致の再検証を行うことである。
本論文の構成は、研究方法「安部赤荻下袋屋敷阿部家と赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法の見直し」、結果と考察「第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論を、「同一人物とみなす」考察への修正」
としている。
2 研究方法
安部赤荻下袋屋敷阿部家と赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法の見直し
(1)平成27年の研究方法と結果および考察
第6報「赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法」では当家系の実年数の史料不足から、岩手県史の「この時代の人頭の1世代は22年~26年位」を用いたことで、誤った結論を導いた。
①研究方法
平成27年6月30日発行岩手県南史談会研究紀要の「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて第6報での研究方法は、「畑屋敷初代が赤生津に居住した年代を、畑屋敷5代当主、兵部が寛永19年(1642年)に御引竿を受けた年代から逆算して求める方法であった。しかし、この場合は岩手県史に記載されている「この時代の人頭の1世代は22年~26年位」を逆算の単位とするものであった。5代当主、兵部が寛永19年(1642年)に御引竿を受けた年代を基準にすると、畑屋敷の初代当主が赤生津・畑屋敷に居住した年代は、遡上推定年代は、1世代の長期単位数(26年)を用いると、1538年、短期単位年数(22年)を用いると1554年、したがって、遡上推定年代は1538年~1554年の範囲で、平均値は1546年となる。
②結果および考察
「畑屋敷」の初代当主が赤生津に居住したのは16世紀前半(推定年代1538年~15554年、平均推定年代、1546年)である。これは豊臣秀吉の奥州仕置きによる葛西氏の滅亡に伴い、葛西氏に仕えていた「小次郎」が浪士になったとされる天正18年(1590年)の40~50年前であり、赤生津・安部氏の初代当主と「小次郎」の流落との間に直接的な関係は考えられない。
(2)今回の研究方法
赤荻下袋屋敷・赤生津畑屋敷の実際の世代間年数を参考として、「1世代の実年数平均」を定める。基準は、赤荻阿部家は戒名碑の没年とし、赤生津安部家は、4代将監の組頭年齢から寛永2年生まれ(岩手県)と、12代から19代の戸籍出生年を基にする。そして、赤荻3代大学(小次郎の兄)と、赤生津初代十郎左衛門が、同年代であるか比較する。
①赤荻下袋屋敷安部家の戒名碑卒年からの世代間年数
安部小次郎系統の赤荻下袋屋敷1代(小次郎祖父の外之介)から5代までの平均が15.6歳、1代から10代まで平均が14.1歳。1代(から次の代までの差)22歳、2代は23歳、3代は15歳、4代は25歳となる。
代 |
名 |
没年 |
世代間年数 |
|
初代 |
外記之助 |
天正18年7月10日 |
1590 |
22 |
2代 |
上野 |
慶長17年9月16日 |
1612 |
23 |
3代 |
大学(小次郎の兄) |
寛永12年4月9日 |
1635 |
15 |
4代 |
慶安3年8月27日 |
1650 |
25 |
|
5代 |
太郎兵衛 |
延宝3年12月7日 |
1675 |
-7 |
6代 |
對馬 |
寛文8年4月20日 |
1668 |
3 |
7代 |
太郎兵衛 |
寛文11年6月20日 |
1671 |
31 |
8代 |
太郎右ェ衛門 |
元禄15年正月10日 |
1702 |
17 |
9代 |
惣左エ門 |
享保4年12月17日 |
1719 |
8 |
10代 |
太郎兵衛 |
享保12年2月14日 |
1727 |
4 |
11代 |
治兵衛 |
享保16年2月29日 |
1731 |
|
赤荻下袋屋阿部総本家敷戒名碑 初代のない赤生津安部家系図
②赤生津畑屋敷4代将監の生年及び13代から19代の戸籍から推測した生没年
代 |
名前 |
根拠 |
生年 |
没年 |
世代間年数 |
初代 |
十良左衛門 |
推定 |
1565 |
1635 |
|
2代 |
十郎左衛門 |
推定 |
1585 |
1655 |
20 |
3代 |
兵庫 |
推定 |
1605 |
1675 |
20 |
4代 |
将監 |
組頭年齢から寛永2年生まれ |
1625 |
1695 |
20 |
5代 |
兵部 |
推定 |
1645 |
1715 |
20 |
6代 |
孝内 |
推定 |
1665 |
1735 |
20 |
7代 |
三左衛門 |
推定 |
1685 |
1755 |
20 |
8代 |
四良(郎)兵衛 |
推定 |
1705 |
1775 |
20 |
9代 |
孝内 |
推定 |
1725 |
1795 |
20 |
10代 |
孝内 |
推定 |
1745 |
1815 |
20 |
11代 |
幾太郎 |
推定 |
1765 |
1835 |
20 |
12代 |
幸内 |
推定 |
1785 |
1855 |
20 |
13代 |
専蔵 |
戸籍から |
1807 |
1887 |
22 |
14代 |
幸治 |
戸籍から |
1824 |
1891 |
17 |
15代 |
四郎兵衛 |
戸籍から |
1846 |
1920 |
22 |
16代 |
幸蔵 |
戸籍から |
1867 |
1943 |
21 |
17代 |
夘助 |
戸籍から |
1901 |
1970 |
34 |
18代 |
嘉雄 |
戸籍から |
1915 |
2009 |
14 |
19代 |
渡 |
戸籍から |
1942 |
1990 |
27 |
|
|
|
14~19代平均 |
23 |
畑屋敷安部家の系図は、2代から12代までは、「磐井郡東山南方赤生津村代数有之御百姓書出」、岩手県史4、岩手県姓名辞典(390頁)の名簿と一致しており、13代からは戸籍により証明されている。しかしながら、初代は、他地域から赤生津に移住したため、系図にあっても、御百姓書出には記載されない。また、生没年は、戒名など消失のため推測される年齢を記した。4代将監の組頭年齢が史料【岩手県史4・799頁 (延宝3 長根51将監)】にあることから、「将監の生まれ年1625年」をもとに、戸籍で確認できる13代専臓の間を平均で生没年を表した。1代から3代も同様に平均値から推定年代を算出した。なお、戸籍で確認できる14代から17代の世代間は23年、平均寿命は71歳である。
②赤荻3代大学(小次郎の兄)と、赤生津初代十郎左衛門が、同年代であるか比較する。
3 結果
赤荻阿部家と赤生津安部家の没年、4代将監を基準とした試算から「1世代20年」が適当と判断した。この1世代年数により、初代に遡る計算方法に修正することで、赤荻3代大学(小次郎の兄)と、赤生津初代十郎左衛門(小次郎)が、同年代で一致した。赤生津4代将監の特定されている生まれ年とも一致している。
「1世代20年」の年代遡及計算により、赤生津初代十郎左衛門は、推定1565年生、1635年没で、小次郎兄の大学と同年代となる。よって、赤生津初代は、小次郎と同年代であり同一人物であることがいえる。
(1)平成27年研究による赤生津初代を特定する年数の修正
①「赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法」の修正
項目 |
安部徹良氏による赤生津安部初代当主が居住した年の推測 |
当研究による赤生津安部初代の生没年の推測 |
逆算する年代 |
5代兵部(三四良)が御引竿を受けた1642年(生没年ではない) |
4代将監(惣右衛門)が組頭名簿(岩手県史4巻)により1625年生まれ |
1世代遡上年数 |
最小22年、最大26年 |
1世代20年 |
遡上年数根拠 |
岩手県史「この時代の人頭の1世代は22年~26年位」 |
赤荻下袋屋敷・赤生津畑屋敷の実際の世代間年数を参考 ・安部小次郎系統の赤荻下袋屋敷1代(小次郎祖父の外之介)から5代までの平均が15.6歳、1代から10代まで平均が14.1歳 1代(から次の代までの差)22歳、2代23歳、3代15歳、4代25歳 ・畑屋敷安部家の戸籍証明により14代から19代の年代間が平均19.8歳。平均年齢72.5歳 |
結論 |
1538年から1554年の間(小次郎が居住し奥州仕置きで去る1590年よりほど遠い) |
十良左衛門義澄 およそ1568年生、1638年没 奥州仕置き1590年の時は、推定で初代十良左衛門義澄22歳、2代十良左衛門義則が3歳となる。
|
② 畑屋敷初代が赤生津に居住した世代年代の修正
代 |
先祖名 |
当初の推定 |
修正後の推定 |
|||
赤生津に居住した年 |
生没年 |
|||||
遡り最大 |
遡り最小 |
生年 |
没年 |
根拠 |
||
26年 |
22年 |
20年遡り |
20年遡り |
|
||
初代 |
十良左衛門義澄 |
1538 |
1554 |
1565 |
1635 |
|
2代 |
市良左衛門義里 |
1564 |
1576 |
1585 |
1655 |
|
3代 |
十良左衛門義則 |
1590 |
1598 |
1605 |
1675 |
|
4代 |
将監(惣右衛門) |
1616 |
1620 |
1625 |
1695 |
組頭年齢から寛永2年 |
5代 |
兵部(三四良) |
1642 |
1642 |
1645 |
1715 |
|
5 赤荻下袋屋敷安部系図と赤生津畑屋敷安部系図の接点に関する検証
年代の解析により、安部小次郎と安部十郎左衛門の生没年が同年代であることがいえる。葛西没落当時は、赤生津村に安部家は1軒のみである。そして、「赤生津安部氏の出自を尋ねて」第5報(67頁)研究から赤荻村の代数有之御百姓書出に小次郎の家系が見当たらないことから、安部小次郎と安部十郎左衛門は、同一人物とみなすことができる。よって、赤荻下袋屋敷阿部3代大学の弟左近小次郎は、赤生津安部初代十郎左衛門とみなすことができる。
赤荻下袋屋敷 安部家 |
赤生津畑屋敷 安部家 |
||||
代 |
名 |
没年 (戒名碑) |
代 |
名 |
没年 (推定) |
初代 |
外記之助 |
1590 |
|
|
|
2代 |
上野 |
1612 |
|
|
|
3代 |
大学(小次郎兄) |
1635 |
初代 |
【推測】小次郎重綱 |
1635 |
4代 |
1650 |
2代 |
十郎左衛門 |
1655 |
|
5代 |
太郎兵衛 |
1675 |
3代 |
兵庫 |
1675 |
6代 |
對馬 |
1668 |
4代 |
将監(県史・組頭年齢から1625生) |
1695 |
7代 |
太郎兵衛 |
1671 |
5代 |
兵部 |
1715 |
4 考察
第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論を、「同一人物とみなす」考察への修正
(1)小次郎から十郎左衛門に改名、出自が隠蔽された理由
研究結果をふまえ、赤生津安部家の初代は、安部小次郎であることを年代により特定することはできた。次に、由緒や初代に関するいわれがなく、小次郎から十郎左衛門へ改名したことの理由であるが、秀吉の奥州仕置、刀狩や兵農分離、検地において、反抗するものはすべて撫で切り(皆殺し)の御触れが原因である。追手から逃げるためには、逃亡するか、出自の取り調べに備え系図の隠蔽や改ざん、改名などが考えられる。
葛西没落当時の周辺地域の地方史をみると、①秀吉の刀狩を恐れた浪人の帰農や改名、由緒など系図の隠匿四散、②兵農分離のためによる氏素性(出自・家柄・家系・経歴など)の抹殺などが見られている。また、1618年兵農分離による農民の改名があるが、国名官名を称することが禁止となったことによる。この影響もあり赤生津安部家では初代から5代が改名したのではないかと考えられる。
代 |
武士名・御百姓書出名 |
改名又は別名 |
根拠 |
初代 |
【推測】小次郎重綱 |
||
2代 |
十郎左衛門(御百姓書出名) |
市良左衛門義里 |
|
3代 |
兵庫(御百姓書出名) |
十良左衛門義則 |
|
4代 |
将監(御百姓書出名) |
惣右衛門(1683) |
県史3・192 |
5代 |
兵部(御百姓書出名) |
なお、1700年代には安部家では切支丹がおり、人別帳などにより厳重管理され、さらに出自を隠蔽せざるをえない状況となった。年数とともに伝承や秘密事項は風化したものと考えられる。
さらには、赤生津安部家では、由緒となる小次郎の感状を手放したことが、出自の証拠を失う大きな原因である。
(2)安部小次郎の移住から「赤生津安部氏の出自」が明らかにされるまで
〇天正15年(1587)
由緒から推定し、白鳥舘には小次郎と祖父外記之介、父 上野、兄 大学が住んでいた。奥州仕置きの3年前であるが、祖父外記之介の軍功により赤生津に五千刈を与えられ、赤生津東館に、孫の安部小次郎が居住する。由緒では葛西没落後とあるが実際は没落直前に赤生津に避難したのではないか。
〇天正16年(1588)
感状から推定し、小次郎の軍功から小次郎は、黄海村(一関市)に2年間異動したのではないか。史料には事実はない。
〇天正18年(1590)
秀吉による奥州仕置きがはじまり東館は倒壊される。この年、祖父外記之助は亡くなるが戦死ではない。一族は仙北に逃れたとも伝える。その後、小次郎の父 上野、子 大学は、赤荻に帰農した。
小次郎は、黄海村の領地を没収され、父と兄の暮らす先祖の地ではなく、赤生津に居住したことが考えられる。あるいは討死したのであろうか。秀吉による奥州仕置きや再仕置きで迎え撃つ兵には、白鳥治部のみで小次郎は見当たらず、討死やその後の行方など地方史には残らない。この時、小次郎は、兄 大学(1635年卒)の年齢から推定で25歳、妻がいて子があれば、2代十郎左衛門は推定5歳ごろであろう。
〇葛西没落後
葛西没落後は、赤生津村は伊達藩の領地となる。奥州仕置きと兵農分離の中で、かつて葛西家であり反発するような浪人は撫で切りされ、旧家臣は身を潜めている時代である。
白鳥舘の白鳥民部又は治部の行方は知れないが、家老職であった宿屋敷大石家は白鳥氏と姻戚関係があるという。大石家は民間に下り、赤生津村の肝入となる。
さらには、赤生津村には「赤生津7軒」伝説があり、慶長年間(1596-1614)の21軒から断絶や逃亡、金山遭難などで7軒が残った。これは秀吉による金山経営で移住者の増大、金山一揆治の影響もある。このような厳しい時代に、赤生津安部の祖は生きなければならなかった。
〇寛永年間
祖父外記之助の軍功の感状は赤荻の下袋屋敷で代々引き継がれた。しかしながら、小次郎の子孫は、刀狩・兵農分離、さらには切支丹弾圧を受け、「葛西晴信感状」と由緒書を没収されたと推察。子孫には「先祖は衣川安倍氏」と伝えた。小次郎の「気仙沼浜田氏の兵乱に参戦した軍功」の口碑伝承も約400年の間に風化した。
〇明治以降
「小次郎の軍功」は、明治時代まで地方史に見られない。伊達世臣家譜が公表され、研究者の目にとまるのは昭和である。また、大正から昭和の間に、「小次郎宛晴信感状」が石巻の毛利氏の史料として発見されるまで、小次郎あて晴信感状の内容はられることがなかった。
〇昭和
安部小次郎が赤生津にいたことを郷土史関係者が研究しはじめるが、赤生津安部家には、感状も、初代の史料も残っていないことから、出自を見出すことができない。
〇平成から令和
平成23年から子孫による出自の探索研究がはじまり、令和になり「小次郎宛晴信感状」と「赤生津安倍家由緒書」が見つかる。
5 まとめ
本研究により、①赤生津住人安部小次郎宛晴信感状が、石巻市役所に保管され現存していること、②安部家の世代間年数の特定により葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることを検証した。
当研究をすすめるにあたり、赤生津安部旧墓地からキリストの「C」の梵字が発見され、人別帳から切支丹類族であることが分かった。出自を隠蔽しなければならない理由の一つでもあることから、さらに今後の研究課題となる。
気仙兵乱に関わる葛西晴信感状に関しては、石巻市の平成3年の研究により、35家臣のすべての感状が、香炉印が偽物により偽文書の疑いがあることを指摘している。小次郎宛晴信感状を石巻に見つけた時も同様の指摘を受けているが、葛西没落後に仙台藩などが気仙兵乱の参陣者に発行したものでないかと推察される。感状の宛先に、住人や子孫などの名が多いからである。安部小次郎に限らず、岩手県と宮城県をまたぐ大きな課題であることから、識者の見解を待たなければならないが、研究がいまだ進んでいない。岩手県史はじめ市町村の気仙兵乱の史実をくつがえし、参陣した武士の子孫の由緒にも影響することから、早急な研究を願うしだいである。