赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安部外記之介は「葛西氏の執事」?

【仙台領の戦国誌・196】

気仙の暗雲、「浜田の大乱」

「古文書」によると、葛西晴信はこの争乱を、本吉氏側に落度があるものとし、「お前には、武力抗争のために立ち上がった正当な理由があるのだ、わしは少しもお前をとがめる意志などない、勝利に終わって重々であった・・・」と、浜田氏に肩をもって、親書をよこしている。又、男沢越前、安部外記之助(葛西氏の執事)を送って事態の収拾につとめさせていた。

 

【当調査 葛西氏の執事とは?https://tm10074078.web.fc2.com/kasai150.html 】

(参考になるか?)

幕府と同じように事務方を各自領に配置し 、統括役として執事しつじが設けられた。執事の命令で、地方に出向き代行する武士として御内人みうちびとが、郡奉行の置かれた所に、北条家の政所も置かれた。特に、得宗家の支配地域は奥州が多く、多くの御内人みうちびとが派遣された為、現地の地頭や国人達は、新たな代官の御内人の指揮下に入ることなった。実際、津軽安東氏あんどうしが、北条陸奥守の命により蝦夷管領えぞかんれいに任じられたと云われている。もともと古くから安東氏の職務であったものを新たに管領に任じたられたことは、御内人みうちびと待遇に成った事になる。南部家も同様に命じられたと云われており、 恐らくは、葛西氏も同様に御内人の資格を得た与えられたものと推測される。