赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

北上河畔二十余町歩の開田と赤生津橋の架設に貢献「安部精蔵の頌徳碑」 ~畑屋敷4代将監二男長根屋敷~

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岩手県姓名辞典】

安部精蔵(1881~1951)

東磐井郡生母村(前沢町)赤生津生まれ。生母村書記・収入役・助役を経て大正一二年より三期生母村長を務め、村会議員を含め前後三八年間村政に尽くした。また、村の農業会長、耕地整理組合長も務めたほか、北上河畔二〇余町歩の開田と赤生津橋架設を完成させた。赤生津に頌徳碑が建つ。

 

前沢町史下巻㈡ 1323】

安部精蔵の碑 

所在 生母字斉田(県道筋山根)

大きさ 縦 二六四cm  幅(最大)九七cm

台座共総高 三一九cm

 

(題字)阿部精蔵翁頌徳碑(前沢町有志一同建之)

翁は明治十四年十一月父五平治母ハツの長男として東磐井郡生母村治長根に生れた五平治は初貝氏の出である。壮年生母村書記次いで収入役助役に就任大正十二年村長に選ばれ任を重ねる事三期又村会議員六回実に 前後三十有八年に及ぶ其間或は信用組合長農業会長耕地整理組合長の要職を兼ね殆ど生涯を村政に捧げた翁幼にして明敏長じて剛毅誠実人を動かすの力郷党皆師父と仰ぎ国亦大臣賞を以てした宜なるかなである就中北上河畔二十余町歩の開田と赤生津橋の架設は誠に翁が不抜の精神と堅忍の努力に依るものである嘗て老朽の桑園と荒地は今や年毎に稔る穣々の美田と化した又風水に脅かされつつ繰舟に托した北上川も昭和十年十月には村民歓呼の裡ちに渡り初めの式典を挙げた茲に頌徳の碑を建て不滅の功を後世に貽さんとする翁の魂は永く橋畔に留まり莞爾として郷土の発展を見護る事であろう。 

惜むべし昭和二十一年十月病を以て長逝行年六十六歳であった村葬の礼を尽して浄円寺に葬した。

昭和三十五年四月二十七日 

岩手県知事 阿部千一 篆額 

一ノ倉則文 撰文