慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開いた後、慶長末頃には赤生津村には屋高は21軒あった。その後、借金、殺人などに関連した逃亡や逐電、また老衰、疾病、乞食で死亡するものなどがあり、屋高から除かれ、寛永16年(1629年)江戸時代初期に参勤交代制が確立した頃、残った屋高が屋高七軒として、寛永16年(1639年)9月13日付で赤生津村肝人の宿屋敷茂右衛門により仙台藩に報告されている。これが後世、赤生津七軒と言われるもので、宿屋敷 茂右衛門、畑屋敷 三四郎、竹内屋敷 門右衛門、箱根屋敷 与平、西屋敷 掃部、畑北屋敷 助九郎、車屋敷 源四郎の七軒である(岩手県史第四巻)。この中に先祖畑屋敷の第四代安部三四郎はいた。