赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

母体、赤生津の天正18年(1590)奥州仕置

豊臣秀吉の奥州仕置による葛西氏が滅亡し、白鳥村、目呂木村、赤生津村、田河津村、母体村を知行とする領主、白鳥民部少輔は、追討軍に追われ行方知らず。

秀吉が命令した小田原参陣に遅れたため、葛西氏領土が没収。遅れた理由は、葛西氏領内の豪族の争乱「浜田の乱」で手に負えなかったため。

秀吉の追討は、徹底しており、母体村の後藤家の武士も犠牲。多くの武士は農業につき、金堀にも従事した者もいる。

赤生津村、母体村で帰農した武士(岩手県姓氏歴史人物大辞典)

白鳥氏家老の宿屋敷大石家、畑屋敷安部家、竹内屋敷佐藤家、箱根屋敷三浦家、西屋敷小野寺家、佐藤家、後藤家

 

赤生津安部家 武士伝説と五輪塔