赤生津村には21軒あった。乞食や、村からの逃亡、金山遭難、人を斬って逃げ去り、御判金に困り逃げ去りなどの事件が続く。赤生津村は7軒に減る(田河津村の独立も影響か)。これは、豊臣秀吉が金堀の年貢を重くしたため、「つぶれ」という貧困や、借金からの逃亡が増えた。(岩手県史4巻66頁)
残った村民はわずか7軒。の惨状から逃れた強者といえるのでは。赤生津7軒のうち少なくとも5軒は武士。
その強者「赤生津七軒」は、
宿屋敷大石家、畑屋敷安部家、竹内屋敷佐藤家、箱根屋敷三浦家、西屋敷小野寺家、北畑屋敷初貝家、東屋敷。