寛永19年(1642)、母体村、赤生津村の一部から、「田河津村(41戸)」が誕生。年貢を納めやすいように、束稲山の東側が独立した村。
赤生津村の一部であった「矢ノ森」は、藤原氏全盛期から金堀が盛ん。「藤壺の滝」「切支丹処刑場」などの矢ノ森八景がある。この頃、赤生津村でも金堀を中心に切支丹が増加。豊臣秀吉は西洋に支配されないように、切支丹を弾圧し、処刑。当時、この村で、逃亡や人殺しが多かったのもその理由の一つ。
古い墓地には、切支丹であったことの証明である「卍」や釣針状の印がある墓石がある。封印され風化し誰もこの事実を伝えるひとはいない。
岩手県南史談会研究紀要50集
赤生津安部氏の出自を尋ねて