束稲山麓の開拓により、棚田などの農地が増え、嘉永6年(1853)洪水で、白鳥舘を囲むように沖積地が広がった。桑の葉が栽培され、養蚕が盛んになり、赤生津村民は豊かな暮らしができた。
養蚕業は、宝暦3年(1753)安部家が先駆けて普及。水害が多い地域だが、沖積地の養蚕、傾斜地の棚田で繫栄した。養蚕の神様「蚕影」が道沿いにある。神楽や鹿踊もあり信仰心の篤い地域であった。やがて、鈴木家が製糸工場まで発展させる。北上川舟運から鉄道に変わるころ養蚕業は下火となり、北上川沖積地は荒れ果てていく。昭和となり、安部村長時代に沖積地を開田とし、流通のため赤生津橋の架設に尽力した。
養蚕の神様 蚕影(こかげ)
「岩手県南史談会研究紀要51集
生母赤生津の養蚕農家の文化とその歴史的考察」