赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤生津地域の農業遺産に関すること

1 農山村の食料や生計に関する歴史

赤生津村は、天正18年(1590)秀吉の奥州仕置後の混乱により、21軒のうち多くが断絶し1639年には「赤生津7軒」(岩手県史4巻69頁)となる。そのうち葛西家臣から浪人となった系統には大石家(東館白鳥氏家老)、安部家(白鳥村照井舘住人)があった。赤生津7軒からはじまったと言い伝えがある。

 1700年頃に白鳥舘を中心に北上川の水流が蛇行し、赤生津沖積地はこの時に形成された。蛇行により赤生津地域に目呂木や大桜地域の土地が一部含まれたため、現在でも所有者が赤生津地域に通い農業をしている。

宝暦3年(1753)にはすでに赤生津に養蚕が導入されている(前沢町史下巻㈠192頁)。安部家子孫などが普及させた。沖積地は桑畑一帯となった。洪水が頻繁に起こるが、桑畑は水害に強く、地質にも適しており、赤生津は養蚕により発展していった。現在の県道を境に、東側が棚田で、水田と養蚕を営む農家がほとんどであり生活は安定していたという。沖積地桑畑は、小麦や大豆、小豆なども栽培された(赤生津及川照男氏)。

明治、大正になると養蚕のさらなる事業拡大がみられた。しかしながら北上川舟運から鉄道に変わる時期から、養蚕業は衰退し、赤生津では破綻した農家も見られる。昭和30年代に沖積地の開田により水田に様変わりした。たいていの農家は、開田のみの水田では水害で収穫が減ることから棚田も併用してきた(前沢町史)。

 

2 農業に重要な生物に関すること

 束稲山は岩盤であり麓には湧水があり水質がよい。生活にも使用するが生物にとっても環境がよい。現在も水田に引く堤や沢にはアブラハヤ、クサガメ、メダカ、シジミ、ニゴイ、鯉、キンブナ、ドブガイ、ヌカエビ、カワニナ、ヨシノボリ、カジカ、サワガニ、ドジョウ、モズクガニ、外来種など豊富な種類の生物が今もなお生息している(生母地区センター水槽)。

 

3 地域の伝統的な知識システム

 束稲山の共有林には、昔、茅や杉などがあり、共同で家屋や茅葺屋根を造ってきたという(赤生津山ノ神屋敷安部)。

 

4 文化的アイデンティティや風土

獅子踊免許皆伝(赤生津下屋敷所蔵)

 

 赤生津神楽は地域に根差している。40年ほど前からは赤生津小学校では神楽に取り組みさらに浸透した。獅子踊(戦前まで)もある。

最近の調査(岩手県南史談会赤生津安部の出自研究)では、隠れキリシタン(1500~1700年代)、隠し念仏の存在が知られたほか、法華経供養塔も発見された。切支丹と隠し念仏は1500年から1700年代に弾圧を受けた時代であるが、信仰心の篤い地域でもある。この弾圧により貴重な歴史が封印されてきたことが課題である。

                               

5 景観の特徴

 赤生津高台から見下ろす北上川の風景に住民は癒され、棚田と養蚕業に生計を支えられながら愛着を感じて生活し続けてきた。北上川蛇行によりつくられた沖積地は生活の糧となる農地として1700年代から住民により手掛けられた地域である。

 

6 災害等の変化に対する回復力

 肝煎の指導により洪水の多い、沖積地には住居を構えない習わしがある。災害の年には、倉庫から備蓄物資を配給した。