赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

陸奥話記1062年9月17日。貞任の最後、千世童子も

19 貞任の最後

貞任は、剣を抜き、官軍を斬った。官軍は、鉾をもって貞任刺して捕らえた。貞任は六人が担ぐ大楯(おおだて)に載せられ、これを将軍の前に召し出された。貞任は身長は180cmを有に越えて、腰回りは2m20cm(七尺四寸)ばかり。容貌は人並み外れて大きく立派であった。その肌は、肥満して白い。将軍は貞任の罪を責めたが、(重傷を負っていた)貞任は頼義を一目にて死んだ。弟重任も斬れた。(この者字は北浦六郎言った)しかし宗任は、厨川の柵より、自ら深い泥の中に身を投じて逃亡してしまった。貞任の息子は、年齢13歳で、名を千世童子と言った。その容貌は、整っていて美しく、甲冑を着けて、柵外に出て、まことによく戦った。その戦場での姿は、父貞任や祖父頼時の跡目を継ぐ者の風情があった。将軍はこれを哀れに思い、罪を赦そうと思った。

ところが清原武則が次のように進言をした。
「将軍、小さな義の裏に、大きな害があることを忘れてはなりません」

将軍は、この言葉にうなずいて千世童子を斬らせた。この時、貞任は享年34歳だった。城中の美女数十人は、みな絹の羅(うすもの)を着て、金や翠(ひすい)を身に付けていたが、落城の際には、煙に巻かれ、悲しのあまり泣きながら、柵外に引き出された。将軍は、ひとりひとり(功労のあった)武者に賜った。