赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

小次郎の後裔「平士」勘左衛門尚幼は、藩の軍事力と藩政に携わる役

【赤生津安部の出自を尋ねて65】

伊達世臣家譜136「阿倍」に示されているのは、安部小次郎が平士ということではない。平士となった子孫の勘左衛門が、安永年間(1772~1781)に仙台藩に提出した系図の祖が小次郎の意である。小次郎の軍功と赤生津5千刈が由緒はじめに出されている。勘左衛門の父「隋波」は鉱山業で成功し、伊達藩に献上している。

 

赤荻下袋屋敷

1外記之助

2上野

3大学    →(弟)小次郎 ※系図上小次郎の子孫は不明

4豊前 →(弟)1讃岐

         2九久左衛門

         3随波

        4勘左衛門(小平治重頼)1661生―1757

        ※赤生津5代兵部(三四郎)のころ。勘左衛門尚幼は重頼の子か?

※随波史料は「阿部随波考証 龍澤寺住職 塩釜素隆誌」による 

 

仙台藩歴史辞典 31】

仙台藩の家臣団はその由緒や身分などによって家格が定められ、序列化されていた。完成された段階での序列は、①一門、②一家、③純一族、④一族、⑤宿老、⑥着座、⑦太刀上、⑧召出、⑨平士、⑩組士、⑪卒の順になっており、組士以上が武士身分であった。

 

平士は仙台藩家臣団の中心で、多くは大番組に編入され藩の軍事力の中心となることを期待され、平時には藩政に直接携わる役職に任じられるものも多かった。「伊達世臣家譜」には知行高100石以上の1,068家が載せられているが、100石未満や切米・扶持方取りの者も2000家以上存在し、「出入司職鑑」によると大番組の中に知行高が100石未満の者が972人、知行地を与えられず切米や扶持米を与えられていた者が1791人それぞれ存在した。

 

①②が伊達家、③が戦国時代の大名、有力家臣、④伊達家の有力家臣、⑤領国経営総括、⑥侍衆で藩主に挨拶できる家臣、⑦侍衆で正月儀式に太刀目録を献上できる者、⑧正月儀式に参加できる、⑩下級武士、⑪武士身分を持たない

  

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