赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

伊達世臣家譜「阿倍」では「小次郎赤生津に住す。葛西没落で兄大学と子が流落」と。小次郎が赤荻に帰農したと誰が言ったか?前沢町史(S51年)は調査不足から誤り

伊達世臣家譜では、「小次郎赤生津に住す。葛西没落で兄大学と子が流落」とある。この記載のとおりであれば安部小次郎は赤生津の祖先となる。

 

伊達世臣家譜「阿倍」の書き下し文

 百三十六 阿倍

【赤生津安部の出自を尋ねて65】

阿倍の姓(族名)は藤原。阿倍大学 某(実名不明)より出ず。その先は不明。

阿部小次郎重綱は祖先(遠祖の意味か)。

重綱葛西家に仕え、天正中(1573~1592)磐井郡赤生津村に住み、五千刈の地を領す。嘗(かつて)、濱田安房守と戦いて功あり。葛西晴信感状を賜う。●

後、葛西家亡(滅亡)に遭い、大学流落(おちぶれて、さすらう)し、嫡男(本妻が生んだ長男)豊前 某に至る。その子は、太郎兵衛 某。その子孫は詳ならず。大学の次男、讃岐某は祖先(傍系の祖先の意味か)。その子孫は(仙台藩の)中間番士(番士は番衆、番役とも言い、交代で諸役を務める者、主として武士の警護役などで、その中間的な位置にある者か)で、今、三百石の俸禄を保持す。讃岐もまた磐井郡赤荻邑に住む…。

 

【赤荻下袋屋敷系図から】

1外記之助

2上野

3大学  ⇒(弟)左近・小次郎重綱【赤生津からどこへ?】

4豊前  ⇒(弟)1讃岐  【一関山目】

         2九左衛門

            3隋波(小平治重貞)

         4勘左衛門(小平治重頼)

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①伊達世臣家譜

 伊達の平士となった随波の子は、小次郎は安部の遠祖で、小次郎は赤生津の住むという。小次郎兄は葛西没落と共に流落した。

岩手県史3・赤荻下袋屋敷安部氏系図

 葛西氏没落で赤荻安部浪人となる。小次郎兄の大学が赤荻に帰農した。

 外記之介、小次郎まで赤生津に居住。葛西氏滅亡で、兄大学が赤荻へ居住。大学の時代に赤荻で検地をうけた。

③葛西氏家臣団辞典

 小次郎は外記之助の恩領を受けて赤生津に分立した。

 

岩手県姓氏歴史人物大辞典(赤荻下袋屋敷安部氏系図) ⇒一部誤りである

 小次郎が赤生津に地頭として分流した。「小次郎の子の大学」の時代に赤荻に帰農。※「小次郎の子の大学」は誤りで、「小次郎の兄が大学」である。これは、葛西氏辞典に系図が2種類掲載されているが、「小次郎の子が大学」が誤りである。

伊達世臣家譜の「阿倍」の系譜の読み取り方を誤ったものと思われる。ここには、大学の弟に小次郎という記載はない。家譜の1行目に大学とあり、次の項に小次郎が祖と書かれてあるため、「小次郎の子の大学」と受け取った。

 

前沢町史・中巻(昭和51年発行) ⇒誤りである

小次郎が赤生津に住み、葛西氏没落と共に、赤生津を去り赤荻に帰農。(赤生津安部一族との関連する史料や伝承がないとした)

【当調査】前沢町史のもとになる資料は、阿曽沼氏の郷土史であるが、赤荻下袋系図など、一関の磐井郡史からの知見が入っていない。

「赤生津安部一族」とは、畑屋敷安部家であるが、系図に「小次郎」の名がないことが決め手にならなかったのか?当時は改名が普通に行われていた時代。奥州仕置き、切支丹弾圧などの厳しい時代背景である。特定する証拠が見つからないため、小次郎も赤荻に帰農したと単純に片づけてもらっては困る。この背景には、前沢町は胆沢郡であるが、赤生津のみ磐井郡であったことから、前沢町史に赤生津と磐井郡に関する深い歴史が残りにくい。磐井郡では郷土史研究が進み、現に奥州市図書館と一関図書館の所蔵する情報量に格差がある。