赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて第7報に向けて(要旨)

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて

 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証

 

           高 橋 一 彦

 1 はじめに

 葛西没落により家臣から帰農、やがて伊達家臣に再起した旧磐井郡の安部一族がある。初代外記之介は軍功により葛西晴信から感状を、孫の小次郎も感状賜るが葛西没落により帰農した。小次郎の甥の孫随波は事業成功により伊達家臣となり一族は再起を果す。赤荻には外記之介子孫、山目には髄波系統が分族となるが、赤生津小次郎の子孫が地方史では不明となった。奥州仕置後の断絶の危機にさらされた結果であるが、この研究により赤生津安部一族が、子孫であることを証明するものである。赤生津安部の出自を尋ねての研究は、故安部徹良氏兄弟が平成21年から平成27年まで第6報までこの研究紀要に掲載してきた。第7報は著者を変え、新たな視点で小次郎が赤生津の祖先であることを証明し、地方史の発展につながることをめざしている。

 2 研究方法

 (1)安部赤荻下袋屋敷阿部家と赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法の見直し

(2)安部小次郎から安部十郎左衛門への改名の背景事情の特定のための地方史事例からの検証と、切支丹類族となった事実調査

(3)赤生津安部の祖を証明する「安部小次郎あて葛西晴信感状」消失と、石巻市毛利コレクションで保管されるまでの経過調査

(4)石巻市指摘の偽葛西文書に対して、葛西没落後のやむを得ない発行であることの検証

 3 結果および考察

 (1)第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論を、「同一人物とみなす」考察への修正

(2)秀吉の奥州仕置きや士農分離、刀狩を恐れ、潜伏し改名せざるえない葛西家臣であった赤生津安部の祖

(3)葛西晴信感状を手放し、「由緒と系図の初代」を隠された赤生津安部家

(4)赤生津住人あて感状は、帰農後の伊達藩時代に発行

 4 まとめ

 赤生津安部初代は小次郎であり、赤荻安部一族からの分族である。

葛西晴信感状が流出し、由緒を失った赤生津安部家史料と

旧磐井郡安部一族の史料の再整備に向けて

石巻市が指摘する気仙兵乱における葛西晴信偽文書に、新たな検証