【石巻市役所】
葛西晴信偽文書の研究者見解に従えば、正文は①香炉印の上部に二つの突起があり(偽文書にはない)、②香炉の腕が上部がしまり気味で肘が角ばっている(偽文書は開き気味である)、③香炉の底の横線も明瞭で地についている(偽文書は不鮮明)、といった特徴を有しておりますが、件の安部小次郎宛はこれらの特徴とは合致せず、偽文書の特徴を有しています。
【市役所聞き取りから】
後で地域から求められて発行されたともいう。
【葛西氏研究第5号特別号 1991年8月・39】
葛西文書について(石田悦男)
写しであることの可能性
近世作を思われる葛西文書でも、写しにあたるのではないかいう可能性が問題となる。
まとめ
偽書とはいえども先祖の出自をさぐるうえで重要な史料となる得る。何もないよりは、かつて葛西氏であったことを立証し、気づかせてくれる。これは将来にわたってもそうである。文書を否定されても、その家が葛西の出であることを否定するものではない。伝来品の家宝の良し悪しと、葛西の出自たる尊厳は別の次元の問題である。
【当調査の考察】
安部小次郎宛葛西晴信黒印状は、香炉印が偽物という。気仙兵乱の軍功感状は小次郎含む14名が対象であるが、どれも偽文書であるという。しかしながら、気仙兵乱の事実そのものが疑われることにはならない。岩手県史はじめ、県内市町村史が、参陣した葛西側46人の兵士、討死した浜田側8人に関して地方史を取り上げている。気仙兵乱は葛西氏没落の寸前の1588年である。その2年後、旧葛西家臣の所領は没収され、奥州仕置きや刀狩、士農分離を迎える。軍功は事実であったにしろ、軍功により知行を与える感状は1588年(天正16年)6月に発行されていなかったのではないか。秀吉による全国統一はすでに始められており、1588年(天正16)7月には刀狩令が布告され兵農分離が進められようとする中である。いつか没収されるかもしれない領土を、家臣に与えよる行為はいかがなものであろうか。領主が変わり身分を失った旧家臣が、一族の名誉のため、事実に基づきのちに伊達藩に発行をもとめたものではないか。
【刀狩令】
天下を統一しつつあった豊臣秀吉が安土桃山時代の1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した刀狩令(同時に海賊停止令)が特に知られており、全国単位で兵農分離を進めた政策となった。