赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

照井舘主の子孫照井高安は、荻荘荘司(藤原泰衡子孫で赤荻安部の親戚?)と照井堰を完成させた?

 

【照井土地改良区の概要】http://www.terui1170.com/category7/

当時、干魃や飢饉で苦しみ悩まされ続けた村々の窮地を救うために立ち上がったのが、鎮守府藤原秀衡公の家臣で普請奉行であった照井太郎高春である。その高春の企画により、五串の滝(天然記念物指定)より3㎞ほどさかのぼった当時の五串村、猪岡村の磐井川両岸に穴堰を開削したのである。これが照井堰の起源である。
 その後照井太郎高春は志半ばにして藤原氏滅亡と共に没したが、その下流の水路を高春の子孫高安が荻荘荘司と相諮り私費を投じ、高春の意志を引継ぎ完成させ、村々にかんがいさせたと伝えられている。農民たちは長い年月の夢であった用水に歓喜し、照井氏の偉業を称えその姓を付け照井堰と称しのである。
 それ以降もこの地方を治めていた葛西氏や伊達藩による幾度の改修、照井の子孫大肝入掃部左衛門の大改修、柏原清左衛門による北照井堰の開削、清左衛門の孫柏原新十郎と千葉半右衛門の北照井堰の改修などの大改修がなされてきた。

 

一関中里【照井神社】

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