赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

陸奥話記1062年9月11日。官軍は、宗任の「鳥海の柵」(金ヶ崎町)を襲う

16 宗任、経清等、鳥海の柵を放棄す

同11日、官軍は、明け方鳥海の柵を襲った。進軍の行程は10里(約6.5キロ)ばかり。ところが官軍が到着しない前、すでに宗任、経清らは、この城を捨てて、厨川の柵(盛岡)に向かった後であった。将軍は鳥海の柵に入城して、しばらく将兵休息させた。城内の一屋に美酒を入れた数十の甑(こしき)が置いてあった。将兵らは、匂いに誘われて争ってこれを飲もうと群がった。しかし将軍は、これを制止した。「恐く敵が、毒の酒を仕掛けて、疲れたわが軍を騙そうとしたものかもしれない」ところが、雑兵の二人が、これを飲んでも何ともない。そんなことで、全軍の者が、みなこれを飲んでひと息をついて、みな「万歳」などと叫んだのであった。

将軍は武則に語りかけた。
「近年、鳥海の柵の名をずっと聞いていたが、その実際を見ることができずにいた。今日、そなたの活躍によって、初めてこれに入ることができた。武則殿、私の顔色を見ていかに感じまするか?」

武則は応えて言った。
「あなた様は、ずっと王室のために忠節を尽くして来られた。風の中で髪をくしけずり、降る雨で髪を洗い、ノミやシラミのたかった甲胄を着て、官軍を率いて苦しい遠征の旅を続けられた。すでに10年以上の歳月が過ぎておられる。天地にいる神仏は、あなた様の忠孝を助け、わが将兵たちはみな、その志に感じ入っております。こうして壊滅した賊軍が敗走したことは、堤を切って満々とたまった水が流れ出したようなものです。愚臣(私)は、鞭をもってあなた様の指揮に随っただけのこと。ことさらの武勲などありましょうや。そこで将軍のお姿にを拝見するに、白髪が半(なか)ば黒に戻っているようにも見えます。この上は、厨川の柵を破って、貞任の首を取ることができれば、将軍の鬢髪(びんぱつ)は、おそらくことごとく真っ黒となり、痩せられたお身体もふっくらとされるのではないでしょうか」

将軍は言った。
「武則殿は、子息や甥など一族を率いて、出羽の地から大軍を発して来られた。堅牢な甲冑に鋭い刀剣を持ち、自ら矢や礫(つぶて)に立ち向かって、陣を破り城を落としてきた。その戦術は、まるで円石を転がすように理に叶ったものであった。その活躍によって、私も王室に対し忠節を遂げることができたのである。武則殿よ。そなたは功を私に譲ることなどないのだ。ただ私の白髪が黒く戻ったというのは、私も冗談でも、なるほど、とうれしく思うぞ」