赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

陸奥話記1062年9月14日。官軍は、厨川柵(盛岡市)を攻撃

17 官軍、厨川の柵を囲む

9月14日、官軍は厨川柵に向った。

15日、午後6時頃(酉)に到着した。厨川、嫗戸(うばと)の二柵を包囲した。ふたつの柵の距離は、7、8町(650-760m)ほどである。このふたつの柵を封鎖するため鶴翼の陣を張って、終夜これを守備した。ふたつの柵の西北には大きな沢があり、柵の二面は河によって隔てられている。その河岸には、三丈(9m)以上の壁が構築されていて遮断されている。貞任軍はその中に柵を築き、防御の構えを取っている。柵の上には物見櫓(やぐら)を構えて、精兵が敵兵の動向を見張っている。河と柵の間には、敵兵を防ぐための溝を堀り、その溝の底には、無数の刀を逆さまに立て、その下にはまきびしが蒔かれている。遠い敵には、弩(ど=いしゆみ)を放ってこれを射殺し、接近した敵には、礫(つぶて)を投てこれを倒す。敵が柵の下に到達したとすれば、上から熱湯を沸かして注ぎ、弱ったところを鋭利な刀を振って斬り殺すのである。

そのような堅固な柵に官軍が到着した時、城内にいる兵は、官軍を招き入れるように言った。「さあ、いつでもかかって来い」すると、雑仕女(ぞうしめ)たちが数十人、高台に登り、歌を唱(うた)って、官軍を挑発した。

将軍はこれに腹を立てて、自ら16日、早朝6時頃、柵を攻撃した。それから官軍は、昼、夜を問わず、連射式の弩を乱発し、矢と礫を雨あられと降らせたが、城中はビクともせず落城させることはできなかった。逆に官軍の死者数は数百名に及んだ。