角塚古墳に葬られたのは地域社会の王・・・大崎平野の古墳文化勢力と深い関係・・・伊沢地方で大型古墳が角塚古墳1基だけしか造営されなかったことも、東北地方と中央政権との関係の変化による影響を受けている
角塚古墳造営より三世紀ほど後に阿弖流為が登場してくるのは、単なる偶然ではないだろう。
夷大墓公阿弖流為・・・「大墓公」・・・「おおはかのきみ」と読み、東北の前方後円墳である角塚古墳に関連付ける説が注目
大墓公と悪路王 小岩末治 昭和43年 80P
胆沢を代表する人物が、先祖の湯らによって「大墓の公」と呼ばれ・・・角塚古墳の主と、血統的にもつながりのあった人でしょう。
胆沢史談26号 昭和50年 角塚古墳の被葬者と止止井神社 24P
前方後円墳 角塚墳墓造の指導者として扶任されたのが大墓公(その後孫が、やがて蝦夷化豪族の大墓公阿弖流為と見てよいだろう)と思われる。