赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

1588年浜田征伐に西磐井郡赤生津安倍重綱が気仙(陸前高田)に

【葛西氏家臣辞典517】

天正16年、浜田征伐に参加した者に、諸士の名前が恩賞関係の「晴信文書」に見られている。

胆沢郡の大内、石川、佐々木、鈴木、江刺郡の羽黒堂、及川、

西磐井郡の小岩、大槻、小野寺、(赤生津)安倍、佐々木、岩渕、千葉、奈良坂、

東磐井郡の鳥畑、金野、條崎、小野寺、千葉、

本吉郡の熊谷、佐藤、斉藤、菅原、山田、

登米の金野、小野寺、栗原の武鑓、千葉、畠山

 

天正16年 偽文書と疑われる晴信からの宛名に、次の名がある。(石巻174頁)

羽黒堂、大槻、小野寺、熊谷、金野、及川、安部、佐々木

 

浜田征伐に参加した諸士には、①耕地の報酬はあっても晴信文書にはなかった。後世の子孫などが、公的な恩賞として文書に残したのか?②耕地の報酬はなく、後世の子孫などが由緒のために偽文書を作成したのか?

あまりにも多くの諸士が、同じような恩賞の文書をもっており、日付も天正16年6月2日、7日などにそろっていることから、「耕地の報酬」の事実はあったのではないか?

 

石巻173頁】

葛西関係偽文書目録

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赤生津地内に八町の耕地を拝領した?安部小次郎

岩手県史4】

寛永19年(1642)検地帳によると、

畑屋敷 5代安部三四郎 4町7反4畝19歩

宿屋敷大石茂右衛門  8町8反4畝16歩

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大石家は、東舘白鳥氏の家老を務めた。1590年まで赤生津・東館には、白鳥氏と安部小次郎がいる。1642年はすでに、安部小次郎の次の世代が、一関赤荻へ戻っているころである。赤生津にいる安部家は農家2代目と考えられる。永代与えられた8町は、舘に関連する二人が引き継いだのか?

赤生津の伊達家臣の安部小次郎は、この1代限りで、後は、一関赤荻安部が引き継いだのだろうか?

 

 

浜田騒動に関する安倍外記之助の晴信書状(偽書でない真書)

【生母教育史】

浜田城主(陸前高田市)の浜田安房守と、本吉郡志津川城主本吉大膳太夫とが衝突して。浜田勢が本吉郡岩月村に侵入するという戦乱が勃発した。この時、西磐井郡赤荻村(一関市)在住の安倍外記之介が両者の斡旋に奔走して、無事和解させた功により、奥羽の太守葛西晴信より、・・・(前略)・・・その功により、加増のため、磐井郡赤生津村にて、五千苅の地を永代宛行(あてが)うものなり。依って件(くだん)の如し。」という軍功の感謝を受けている。当時葛西領では、五十苅八畝であるから、安倍外記之介は、赤生津の地内に約八町(8ヘクタール)の耕地を拝領したことを意味する。よって外記之介は、孫の安倍小次郎重綱を赤生津に住まわせた。

 

【葛西氏家臣辞典517頁】 

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偽書と判断されない書】天正15年3月20日安倍外記之助宛 晴信黒印状(寺崎清慶「葛西文集」)に、無事相済む、大悦(大きな喜び)此事に候と見える。

 

偽書と疑われる書】天正15年3月11日安部外記介殿 晴信御判  此度元良大膳太夫浜田安房守出入有之 及一戦之処 其方懸合 双方之所早速註進 依之男沢越後守指越之処 令談合取扱故 無事相済大悦此事候 依之為加増磐井郡之内赤生津村二而五千苅 永代宛行者也 仍證文如件

 

天正15年3月中に2通の葛西晴信文書が存在する。「石巻の歴史6巻」編集者によれば、2通目の3月11日付が偽書と疑われるもの。両方に共通して、晴信が「無事相済む、大悦(大きな喜び)を伝えている。

「赤生津に五千苅の報償」は、公文書に存在しないということか?

 

安倍外記之助は、浜田騒動に関しては、天正15年の「和解」により葛西晴信から感謝された(これは真書)。

ところが、天正16年「浜田の兵乱」により浜田征伐が行われる。征伐に29人の諸士があたるが、その中に「西磐井(一関赤荻か?)の安倍」が見える。偽文書が多いのは、この征伐に加わった諸士の軍功に対する葛西氏からの耕地の報償の文書ではないか?

天正18年秀吉の奥州仕置きで葛西氏は没落する。「耕地の報酬」はあったのかもしれないが、その公文書は存在したのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊達家臣となった葛西衆の赤生津阿倍

 

13 阿倍 平士 300石 磐井郡赤生津に住す

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石巻の歴史6巻 242頁】

 

旧臣の移住 251頁

由緒の多くは「主君である葛西晴信公の没落以後に当村へ移住して百姓になった」

 天正18年(1590)葛西・大崎家臣が主君の没落以後に浪人となり、当村へ移り、百姓となったというパターンで語られる。

移住と土着

天正18年以降、百姓化した葛西・大崎旧臣の多くは、中世以来の本貫地(祖先の発祥の地)を離れた形で土着し、百姓となった。

天正18年(1590)、葛西氏・大崎氏は所領を没収され、それに伴って、その家臣団も領主としての権利を否定されることとなった。そのような状況のもと、旧臣の一部は、浪人となり中世以来の本貫地を離れる形で、百姓化していったのであろう。

 

 

安部氏が関わった、浜田安房守広綱に関する葛西晴信文書の検証

浜田の反乱に携わり軍功により安部氏に報償が与えられたというが、浜田征伐には、安部氏だけではなく多くの家臣が参加している。

 

葛西氏家臣辞典には、次のように記されている。

 浜田征伐に参加した者に、胆沢郡の大内、石川、佐々木、鈴木、江刺郡の羽黒堂、及川、西磐井郡の小岩、大槻、小野寺、安倍、佐々木、岩渕、千葉、奈良坂、東磐井郡の鳥畑、金野、條崎、小野寺、千葉、本吉郡の熊谷、佐藤、斉藤、菅原、山田、登米の金野、小野寺、栗原の武鑓、千葉、畠山や諸士の名前が恩賞関係の「晴信文書」に見られ、葛西史の中では最大規模の動乱であったことが実証できる。

 

ウィキペディア
(葛西氏家臣)浜田安房守広綱(はまだあわのかみひろつな)

1523年(大永3年)~1592年(文禄元年)

大永3年(1523年)、誕生。気仙地方の旗頭で陸前高田の東館城主。天正14年(1586年)の歌津合戦で本吉重継を撃破し併合した。天正15年(1587年)、気仙沼の宿敵赤岩城主・熊谷直義と決戦に挑むが、主君の葛西氏が熊谷氏を支援し、熊谷勢の伏兵に遭うなどして戦線が膠着したため、一度は停戦。しかし、翌天正16年(1588年3月には再び所領減の措置を不服とし、及川氏に奪われていた米ヶ崎城を奪回するが敗北(浜田兵乱)、所領を失った。跡を三男・信綱が引き継いだが[1]奥州仕置で改易され、葛西大崎一揆に加担。伊達政宗により謀殺されたため勢力を失い、広綱は隠遁した。文禄元年(1592年)、死去。享年70。

 

【検証】

浜田安房守広綱の逆意(謀反)に対して多くの葛西氏家臣が、武略(いくさのかけひき)をもって、戦った功績に対して、恩賞を与えた葛西氏の文書が25点ほどある。いずれも、葛西氏文書の真偽判別(石巻の歴史)によるとほとんどが偽書の疑いがある。

「功績や恩賞」は、武士の家譜・由来に大きな影響を与えるものである。どのような意図でこの文書が存在するか検証が必要である。

 

石巻の歴史6巻259頁】

村落において「葛西」とのつながりを由緒として示すことは、直接的にその家の古さイコール家格の高さを示すことになったと考えられるのである。

・・・・

葛西古臣としての由緒を示す文書は紛失していても、その詳細については地域の人々が知っている」

・・・・

葛西に関わる文書の真偽が疑わしいという研究史上の指摘が、由緒分析の前提として問題となってきたが、一つの村落における由緒書上の中の記載には、村落内部における一定の合意=共通認識に基づく面も存在しており、偽文書として、切り捨てることはできないのではないかと思われるのである。

 

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安部外記助・安部小次郎宛の葛西晴信文書の検証

(葛西左京太夫晴信文書 葛西史史料第4巻)

「安部外記介あて、軍功により赤生津村に5千苅永代」は、偽書となりうる可能性がある。ただし、外記介の孫、赤生津の「安部小次郎」は、伊達世臣家譜(伊達の門外不出の書)により「平士」であることは証明されている。

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「安部小次郎宛軍功により黄海に五千刈」も偽書となりうる可能性がある。

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真偽判別は、「黒印」「文言上の特徴」「紙」「用紙法」がある。

 

石巻の歴史第6巻 167頁)

「文言上の特徴」

①「此度」「今度」→葛西関係の偽書はほとんどこの「コノタビ」で始まっている。従って、「コノタビ云々」ときた場合、まず偽書として注意しなければならない。ただ戦国期に「今度」という用法は真正な文書にも管見できるので、百パーセント偽書と考えることはできない。

②「一戦に及び」→これも偽書によく見られる用法である。「一戦を遂げ」となっているものもある。家臣の反乱は「某逆意」「某逆心」という書きぶりで登場する。これらの用法は真正文書には見られない。

③「其方武勇を以って」→「其方武略を以って」となるものもある。偽書によく見られる用法である。

④「某を討取」→真正文書にこのような用法は管見できない。

⑤「敗軍」→これは江戸期の用法であろう。

⑥「比類なき手柄に候」→真正な最上関係文書にも「比類なき働に候」と見え、これをもって偽書と即決はできない。ただこの用法は偽書にかなり登場する。

⑦「加増として」「忠賞として」→これらの用法は偽書にかなり見られる。

⑧本文の結びは、種々なものが見られるが、末尾で真偽の判断をすることは至難である。

左京大夫花押系の偽書は、書状であっても年紀を有するものがかなりある。

⑩その他「出入」「其方馳来」「速勝利を得」「為軍功賞」「前代未聞」などの用法が偽書によく見られる。

胆沢川の寿庵堰、そして前沢の岩堰・明後沢堰へ開削したキリシタン

 

先人は、水不足に悩まされた胆沢の水田に水を引くために、用水路を開削し、水田を潤し、胆沢から前沢の何百、何千という農民の生活を救いました。

若柳の胆沢川から前沢の古城の北上川までおよそ25㎞あります。

キリシタン弾圧により殉教者が増えながらも、開削にあたったキリシタンの偉大なる功績といえます。


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現在は、胆沢若柳の円筒分水口があり、胆沢川から複数の用水路に均等に水量を流されています。

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後藤寿庵の寿庵堰をひきつぎ、前沢へ堰を開削した千田左馬、遠藤大学の碑は、若柳にあります。

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胆沢神社から旧若柳小学校付近を経て、寿庵堰に流れます。

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寿庵上堰と寿庵下堰が合流する地点です。

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寿庵上・下堰は、並行して流れ、胆沢の水田を潤し、やがては、岩堰と明後沢堰の二手にわかれ、前沢の地へと流れます。

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明後沢堰を伝って流れた水はやがて、古城を潤し、白山へと流れます。ようやく、キリシタンの村、六日入に流れつきました。

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二本の堰は、前沢の横断し、水田を満たしやがては、北上川へ流れつくのです。

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 1639年のキリシタンの命は犠牲となりましたが、人のため地域のために命をささげた勇気と愛は並大抵ではありません。役400年にわたり恩恵にあずかった農民は、今後も感謝を語り継ぐことでしょう。