【生母教育史】
浜田城主(陸前高田市)の浜田安房守と、本吉郡志津川城主本吉大膳太夫とが衝突して。浜田勢が本吉郡岩月村に侵入するという戦乱が勃発した。この時、西磐井郡赤荻村(一関市)在住の安倍外記之介が両者の斡旋に奔走して、無事和解させた功により、奥羽の太守葛西晴信より、・・・(前略)・・・その功により、加増のため、磐井郡赤生津村にて、五千苅の地を永代宛行(あてが)うものなり。依って件(くだん)の如し。」という軍功の感謝を受けている。当時葛西領では、五十苅八畝であるから、安倍外記之介は、赤生津の地内に約八町(8ヘクタール)の耕地を拝領したことを意味する。よって外記之介は、孫の安倍小次郎重綱を赤生津に住まわせた。
【葛西氏家臣辞典517頁】
【偽書と判断されない書】天正15年3月20日安倍外記之助宛 晴信黒印状(寺崎清慶「葛西文集」)に、無事相済む、大悦(大きな喜び)此事に候と見える。
【偽書と疑われる書】天正15年3月11日安部外記介殿 晴信御判 此度元良大膳太夫浜田安房守出入有之 及一戦之処 其方懸合 双方之所早速註進 依之男沢越後守指越之処 令談合取扱故 無事相済大悦此事候 依之為加増磐井郡之内赤生津村二而五千苅 永代宛行者也 仍證文如件
天正15年3月中に2通の葛西晴信文書が存在する。「石巻の歴史6巻」編集者によれば、2通目の3月11日付が偽書と疑われるもの。両方に共通して、晴信が「無事相済む、大悦(大きな喜び)を伝えている。
「赤生津に五千苅の報償」は、公文書に存在しないということか?
安倍外記之助は、浜田騒動に関しては、天正15年の「和解」により葛西晴信から感謝された(これは真書)。
ところが、天正16年「浜田の兵乱」により浜田征伐が行われる。征伐に29人の諸士があたるが、その中に「西磐井(一関赤荻か?)の安倍」が見える。偽文書が多いのは、この征伐に加わった諸士の軍功に対する葛西氏からの耕地の報償の文書ではないか?
天正18年秀吉の奥州仕置きで葛西氏は没落する。「耕地の報酬」はあったのかもしれないが、その公文書は存在したのだろうか?