赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧

天正15年3月13日晴信黒印の「安部外記介宛感謝状」は和談による功(赤荻下袋屋敷阿部軍司氏所蔵)

赤荻下袋屋敷の阿部軍司氏所蔵の本物の感謝状は、一関市史資料編のはじめに掲載されている。阿部軍司氏は、祖安部外記之介の子孫である(昭和58年没)。 【一関市史】 天正15年は元良大膳太夫と浜田安房守との反目から、合戦まで進展しそうになった時、その…

1600年伊達家臣の陣に「安部讃岐」(小次郎甥)が参加か?

小次郎の甥讃岐は、伊達家臣の戦にも参加していたのだろうか? 白石御陣に馬上参加したときの扶持米の領収書 【葛西氏研究12号 67】 ※扶持米は、米で支給される禄米。1人扶持は1日1人玄米五合の割で、1年に1石8斗が支給される。【仙台藩歴史用語辞典】 【大…

赤生津畑屋敷の正月飾り「魚の切子」はキリシタンの遺風?

安部本家畑屋敷には魚の切子を飾る風習があった(飾りは年数がたち網目が切れている)。キリシタンである事実は言い伝えでは残っていないが墓地にはキリシタン墓字がある。 【全国かくれキリシタン研究会会誌15】 東山町における風習に隠されたキリシタンの…

弾圧から耐え忍ぶ愛に時代が共鳴したのか、「大籠キリシタン殉教 そのこころ」講演から

【平成27年記念講演「大籠キリシタン殉教 そのこころ」 カトリック水沢教会担当司祭 高橋昌先生】 殉教者は、人々への愛のため、いのちをささげましたキリシタン時代には「愛」ということばを使わないで「お大切」といいました。 イエスの山上の説教の「八つ…

「新しいキリシタン学」構築へ大籠殉教物語から

大籠(藤沢町)は、製鉄とともにキリスト教が広まり、世界史上まれにみる激しい迫害を受けた地域です。多くの信者が迫害を受けても、「愛(お大切とよんだ)」をもって耐え忍ぶ「徳」をつらぬいた結果なのかもしれません。 【紙芝居「大籠キリシタン殉教物語…

1590年葛西氏滅亡時の赤生津安部の家族構成とその行方

【当調査】 1590年奥州仕置きにより葛西没落時には、赤生津に安部は、2世帯あったと推測される。小次郎から見て、①4人世帯…父上野と兄大学、妻、その子、②3人世帯…小次郎と妻、その子。 赤荻下袋屋敷(袋屋敷戒名碑没年と、平均寿命70歳とした場合) 1安部外…

軍功により五千刈加増とはどれほど?騎馬武士一人の抱料に相当か

太閤検地(1582秀吉)の際に 3,000歩(坪)を1町とした。この計算にすると5千刈は役6.6町となるでしょうか。 【花泉町史通史98】 この軍功賞は「苅」制でだされている。苅制は中世末期まで行われた生産高で、田積を表す方法で、葛西氏は3千苅で4町歩と換算…

小次郎の後裔「平士」勘左衛門尚幼は、藩の軍事力と藩政に携わる役

【赤生津安部の出自を尋ねて65】 伊達世臣家譜136「阿倍」に示されているのは、安部小次郎が平士ということではない。平士となった子孫の勘左衛門が、安永年間(1772~1781)に仙台藩に提出した系図の祖が小次郎の意である。小次郎の軍功と赤生津5千刈が由…

赤生津東舘の住人、安部小次郎と白鳥氏とは一族の間柄?

赤生津安部小次郎が一時的でも葛西家臣であったことは証明されている。東舘の白鳥氏とは、衣川安倍氏の血を継ぐ者として同族と考えられているのか? 「白鳥治部少輔」は、母阿部民部介女(安倍氏)と山名(源氏)の血を継いでいる。 「安部小次郎重綱」は、…

安部小次郎は、赤荻におらず、やはり赤生津に残っていたか?

赤荻村安部家の祖は、寺袋屋敷であり、 1安部外記助ー2上野ー3大学ー4豊前ー5太郎兵衛、と続く。 安部小次郎左近は、3代大学の弟であり、赤荻安部の7軒の祖には見られない。赤生津に分族したといえる。 「代数有之御百姓」では一関赤荻には、①寺袋屋敷 先祖 …

安倍外記之助(一関赤荻)は所領不明?

浜田の反乱に関する「安倍外記之助」の功績をあげたうえで、一関市史では、安倍外記之助(一関赤荻)は所領不明としている。所領とは、領主・地主によって私有され、支配(知行) 権が行使されている土地のこと。 一関で知行が知られていないとすれば、やは…

「葛西晴信知行宛行状」偽書でなく新たな視点で

【陸前高田市史11巻 65】 葛西晴信信書状は、葛西氏最後の当主晴信が発したもので、特に浜田安房守広綱(米ヶ崎城主)が、本吉表で起こした「浜田の乱」において功があった家臣に宛てた書状が多いことが注目される。晴信は、永禄2年(1559)から天正18年(15…

葛西晴信の命により気仙江刺磐井胆沢から230人が参陣。安倍重綱(小次郎)の戦功は「勇略、悉く勝利」

【気仙沼市史2 557】 大守晴信は、矢作大隅守に「気仙仕置」を任命したが、その翌天正18年1月さらに気仙沼長崎館の熊谷直長に次の兵力を付与した。 気仙・江刺・磐井・胆沢仕置 馬上30騎(1騎に5,6人の従兵が付く) 弓の者150人 これは230人ほどの小部隊であ…