1590年の白鳥舘・東館(赤生津)
束稲山・経塚山から眺める北上川蛇行部。円を描く北上川の中心に白鳥舘跡。右手の水田の中に赤生津安部の祖の地はあります。山地の堤に蓄えられた水から棚田に引き稲作ががなされ、森林から豊富な薪により生活が営まれてきました。 1590年ごろは、束稲山の東…
東磐井郡史には、白鳥八郎の後裔に白鳥民部少輔、そして天正の奥州仕置により没落後は、赤生津宿屋敷つまり大石家に血が引き継がれるとある。大石家の墓石にはこの覚書が記されていた。 また、葛西研究によると安部と大石家は同族関係とみられている。 〇大…
【東山町】田河津 矢ノ森「藤壺の滝」 藤原氏から伊達までの金鉱山跡 岩手県史4巻388頁 白鳥村、目路木村、赤生津村、田河津村、母体村の五カ所は、もと(天正年中)白鳥治部少の知行地であり、しかもこの五村はその当時は一村であり、「万事一通」の取扱い…
墓石1 「C 菩船浄■居士」であろうか? 墓石2 1600年代から1700年に安部氏がキリシタン類族となった可能性があります。赤生津人別帳には2屋敷の類族があることが前沢町郷土史にありますが、大石喜清氏によると大石家、安部家がこれにあたるといいます。人別…
白鳥舘と東舘(赤生津城)は、本城、支城の密接な関係にあります。城主9代から1585年落城まで仕えた大石家老の時代には、赤生津城に2万7千石、母体、赤生津、田河津、黒石など下胆沢を広く知行しました。田河津産金などの積出港で秘密の要衝地でもあります…
年代 出来事・推察 天正年間 東城を白鳥氏が撤退し一族を白鳥城のみに集結させたのは事実のように思われる。(県南史談会 小野寺啓) 1585年(天正13年) 東城・赤生津城落城(家老大石家) …奥州仕置の5年前に落城か? 1587年(天正15年) 安部外記之助が赤…
1 平泉の発展に貢献した「白鳥舘・東舘(赤生津城)の城主白鳥氏」とは 白鳥舘は、11世紀から15世紀まで、平泉の生活基盤を支えて北上川交通の要衝地として平泉の発展に貢献しましたが、対岸にある赤生津城も重要な役割を果たしています。 白鳥舘と東舘(赤…