赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安部は、赤生津帰農に。赤生津祖となるが、刀狩や切支丹弾圧により改名や出自を隠さざるを得ない状況に

 ▼一関市文化財調査委員 小野寺啓氏

平成23年7月発行・岩手県南史談会研究紀要・23頁】

安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~

一関市文化財調査委員 小野寺啓氏

安部小次郎重綱の帰農について

小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未見である。「赤生津安部氏」の祖となったとの所説は史実のように思える。赤荻・下袋安部系図では、帰農したのは安部外記之介の嫡孫・大学(小次郎の兄)である。但し、「安永風土記」の「代数書上」で、竿答したのは五代太郎兵衛からになっている。天正末年、白鳥氏の併有であった東城を、白鳥氏が撤退し一族を白鳥城のみに集結させたというのは事実の様に思われる。葛西氏の支配がゆらぎ始め家臣間の対立が始まったからである。「葛西家臣」の身分の位置づけを、「城主」「城住人」「邑主」「村住」等と記録されている。小次郎が祖父外記之助(介)が、葛西氏から永代宛行われた赤生津の五千刈の領地の「地頭」として、赤荻安部家から分立した。白鳥氏が東城の城主であった時期には、小次郎は東城の「住人」ではなかったのか。白鳥氏の撤退後城主となり、葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか。

 

▼赤荻下袋屋敷安部家22代 安部徹夫氏の所見

【令和3年6月6日の聞き取り】

先祖安部外記之介が天正15年に葛西晴信より感状を所蔵している。元良大膳太夫と浜田安房守との反目から、合戦まで進展しそうになった時、その事情を調査報告し、和談に導いた功に対するものである。赤生津に五千刈の知行を賜り、孫の小次郎に住まわせた。

一関赤荻には、小次郎の分家はなく、赤生津に分立したときく。赤生津との交流はないが、小次郎の墓は赤生津にあると思っている。赤荻阿部家の墓碑には、初代外記之介、2代上野、3代大学、4代豊前から21代まで戒名と没年が示されている。3代大学の兄弟は、左近小次郎、八幡四郎兵衛(五串?)、上野上野(五串うえの)、後林大隅(赤荻)の4人であるが、小次郎の分家は一関にはない。

▼赤生津山ノ神屋敷 安部万王氏、畑屋敷18代弟 及川照男氏の所見

【令和3年6月6日の聞き取り】

安部の祖は武士であり帰農したことは、先祖から伝えられている。安部小次郎に関して、昭和年代に話題になっているが、(火災などもあり消失し)書類に残っていない。赤生津安部の初代が存在しないが、なぜ紛失しているかわからない。

【当調査】

赤生津安部の由緒と初代に関する書類がない理由として、葛西氏没落当時の周辺地域の地方史にあるように、①秀吉の刀狩を恐れた浪人の帰農や改名、由緒など系図の隠匿四散、②兵農分離のためによる氏素性の抹殺などが行われたことが起因しているのではないか。藩による安部家の子孫検索のための書類提出により失われたと思われる。また、その後安部家では切支丹類族となり、さらに、人別帳などにより厳重管理され、出自を隠さざるをえない状況に追い込まれたのではないか。