赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

荻荘家の由来「藤原泰衡の子良衡」。照井高泰と荘園内の水利を興す

【照井土地改良区小誌・13】

荻荘荘司について 

荻荘家の先祖は藤原泰衡の子良衡であります。

平泉藤原氏が文治5年(1190)源頼朝の大軍に攻められたとき、秀衡の子万寿丸(2歳)は祖母徳子(秀衡の妻)母頼子と共に僧助光坊の計らいに依り須川嶽を超え鎧谷頼重の案内にて出羽國雄勝郡男安郷に逃れ住み、佐藤次郎裕道のもとに世話を受けて成長されました。

文治6年(1191)3月羽黒山大権現別当兼大泉庄司武藤次郎右衛門氏の世話を得て後羽黒山にて修業母徳子は佛尼となり酒田郷に住され後一寺を建立し泉流寺と稱す。

母頼子も又仏門に入り眞光尼と稱す。

時に万寿丸名を改め佐藤良衡と稱す。

正治2年8月(1200)登米郡寺池城主葛西三郎清重公羽黒山御参詣の折、佐藤良衡(12,3才のとき)葛西公に拝謁し従士を仰付られ寺池城に奉公し、主公に忠誠を盡し、清重公その忠実を愛され名を改め良親と賜り清重公の養女兼子(金為泰の娘)を妻に娶る。

承元2年2月(1208)葛西公のお計らいに依り当宮田舘に移住され中尊寺御領荻ノ荘荘司を拝命す、又磐井郡鎮守總社日高見の山始輪日大神別当に補せられる。

これが荻ノ荘家の家号の始となる。

以来今日まで770余年間、佐藤氏を名乗る時代あり又赤荻氏を名乗り次に阿部氏を名乗る時代があったが明治維新に至り荻荘を姓を改め当主司太郎まで36代に至りました。

その間荘司から別当、庄屋、肝入後、戸長職をつとめ、近世に至り現在は宗教法人日太上太子境界を設立し太子堂を建立して春秋2回例祭を執り行っています。

荻荘家

 初代 良親(泰衡の二男)

 承元2(1208)年荻荘荘司を拝命 

 照井太郎の子高泰を計り荘園内の水利の便を興す。

 文永元甲子年3月27日没す 78才

 戒名 浄光金蓮禅定門