赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

由緒書「比与鳥七郎(則任)の前室は厨川柵の堀に沈む」とあるが。

(著者)

盛岡市天昌寺に厨川柵の堀の跡といわれる場所がある。前九年役で追われた安倍則任の妻が身を投げたといわれるが、堀にしては浅いのではないか。

盛岡駅周辺で北上川も近いが、それほど深い淵はなさそうだと思う。

前沢の白鳥舘脇の北上川であれば、昔、渦をまくほどの深い淵があったというが。ぞこではないのか?

 

 

厨川柵(くりやがわのさく・盛岡市) | いわての文化情報大事典 (pref.iwate.jp)

 

厨川柵は前九年の役で滅亡した安倍一族最期の拠点で、安倍氏の勢力圏では最北端にあたり、城主は安倍頼時(あべのよりとき)亡き後、総大将となった次男・貞任(さだとう)である。南の衣川館とともに安倍氏の二大拠点であった。康平(こうへい)5年(1062)9月、源氏・清原氏の連合軍に包囲された厨川柵は激戦の末に落城、貞任や重任(しげとう)は捕らえられ処刑、宗任(むねとう)、家任(いえとう)、則任(のりとう)らは降伏、頼時の娘婿の藤原経清(ふじわらつねきよ・清衡(きよひら)の父)はわざと切れない刀で首を打たれ苦しみながら亡くなり、安倍一族は滅亡した。『陸奥話記』には「城中男女数千人」とあり、かなり大きな城であったことがうかがえる。安倍氏滅亡後、奥六郡は出羽の清原氏支配下におかれたが、その間厨川柵がどのように利用されていたのかは不明である。