赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

生母の家々の由緒

赤生津村鈴木家(荒屋)

長根屋敷鈴木家より元禄初年に分家。初代、二代、四代は赤生津肝入役。五代兵之助は赤生津肝入、長部村・小島村肝入も兼任。六代市左衛門も三村肝入役、天保四年の大凶作に貧民救済のため金を献上、苗字帯刀永々御免となる。七代文三郎は水沢県庁、次いで岩手・新潟両県庁に務め、明治22年初初代生母村長、同31年衆議院議員

 

母体村千葉家

中世、母体城主。天文19年の新山師兼入道の反乱の原因となる長坂城内での大弓の競射に母体城主千葉伊賀守則房が参加。

 

母体村佐藤家

祖の民部少輔持信は薄衣(川崎村)の諏訪前館に居住し、その後裔の清信の代の天正年間、母体村の大和田治部少輔の許に走り、同地の豪族

 

母体村後藤家

母体天王集落の後藤家は江戸期母体肝入。

元は佐藤を称し、現在の福島県信夫郡佐藤荘の荘司の後裔。清信は初め薄衣館(川崎村)に住み、天正年間伊達氏に追われて西舘(前沢)に住したが、再び伊達政宗の追討。その後の越後の代に後藤と改姓。

 

岩手県姓氏歴史人物大辞典