赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

後藤寿庵の堰の開削引き継いだ前沢キリシタン

1644年から1873年までの230年間、禁教の時代を文字通り潜伏して生き抜き、明治になって禁教が解かれたときにカトリックに復帰した信者たちを「潜伏キリシタン」、一方で、カトリックに復帰せずに潜伏期以来の儀礼や行事を守ってきた人たちを「かくれキリシタン」といいます。

 

 寿安堰の生みの親として、胆沢平野の開墾に大きな功績を残した後藤寿庵。寿庵は、慶長17(1612)年から元和9(1623)年までの12年間、現在の水沢市胆沢町の一部の領地を治めていましたが、水不足に苦しむ領民の姿を見かね、私財を投じて胆沢川の水を引く用水堰の開削に尽力します。しかし、熱心なキリスト教信者だった寿庵は、年々厳しさを増す切支丹弾圧から逃れるため、堰の完成を待たずして逃亡を図ります。

 農民の悲願だった用水堰は中断を余儀なくされましたが、寿安の意志を受け継いだのが、関村(現・前沢町)の千田左馬父子と、目呂木村(現・前沢町)の遠藤大学でした。千田と遠藤は、よき弟子として働き寿庵から用水土木技術を学んでいたため、彼らの指導の元、およそ17キロメートル分の工事が進められ、寿安堰は寛永8(1631)年に完成しました。

知られざる胆江の偉人たち
▲前沢のお物見公園内にある、千田左馬と遠藤大学の功績を記念して建立された記念碑。

 寿安堰は、後藤寿庵の功績もさることながら、千田左馬と遠藤大学の働きなくして完成し得なかったといっても過言ではないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 1640年はキリシタン弾圧により前沢でも多くの信者が殉死されました。堰の開削に従事した農民の多くは切支丹だったのでしょうか。古城、白山の堰付近には、多くの祠や神社があります。遠藤宅には神社があり、今でも地域民から崇敬されています。命がけで水田の用水路の作業にあたった方々に感謝と敬意を表します。

 

(参考)寿安堰と後藤寿庵

http://www.isawa-heiya.or.jp/files/libs/2825/201908191625407901.pdf

 

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開削作業携わった竹沢将監というキリシタンがおり、この方も殉死されている。郷土史では伝説であったが、平成16年前沢町発掘調査により、前沢の竹沢将監の墓があることが証明された。東山町田河津にも墓があるという。

 

【岩手のキリシタン・司東真雄 43頁】

前沢村の竹沢将監は転宗してから歿し、矢作村へ葬られた。

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古城地区内にある切支丹と思われる墓。堂田橋の熊野神社のわきに「キリスト」の墓字がある墓が存在する。

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 前沢古城 十字路付近 墓字「一 心」はキリシタン

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白鳥あかづら地区にある聖徳太子に見立てたキリスト崇拝像。一本木と太郎ガ沢に多くの方が殉死したと伝える場所がある。

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1623年 仙台領内にキリシタン取締り厳達

1635年 幕府全国にキリスト教禁止令再び

 

【岩手のキリシタン 44頁】

1638年(寛永15年)下胆沢郡へ手入れ

  4月胆沢郡六日入村合野々で藤戸十郎左ェ門と家中19人中11人が処成敗され、8人は土地を追われ、この内平右ェ門女房の父古舘の惣左ェ門は転ばないので処刑された。

 

1639年 仙台領内キリシタン信仰を固く禁じ、改宗しない者は厳罰に処する布達

  金沢村(花泉町キリシタン踏み絵

  大籠(藤沢町)84人を2回に分けて斬首の処成敗(現地処刑)

  【前沢】白山村居住(東山町移住)渋谷太郎左衛門が仙台で処刑

  【前沢】赤面・大佐倉のキリシタンを太郎ヶ沢の下流畔の丘で処成敗。亡骸をその場に埋め「沈め壇川」と地名に残る

 

【県史4・1626頁】

1646年(正保3)仙台藩で人別調査始まる

 

【岩手のキリシタン 52頁】

1682年(天和2)懸賞付訴人の申出を広告

  幕府がキリシタンに対して奉行名で

 

【県史4・1626頁】

1688年(貞享5)類族調査始まる

享保(1716-1735)頃が多く、天保頃(1830-1843)には消えている。