赤生津・安部氏の出自を尋ねて

衣川安倍頼時の七男「比与鳥七郎」から「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前」までを探求しています

1590年鉄砲など近代戦に熟練した奥州仕置軍、一揆に対する再仕置の厳酷さ

葛西4百年(266頁)

秀吉は、占領地に対し厳重な検地と刀狩を発布。「山の奥、海は櫓櫂の続くまで、念入りに行い、いうことをきかない場合は、撫で切りにせよ」と徹底した。

 

葛西4百年(274頁)

反乱に組した者全員を誅殺して一揆は鎮定した。秀吉にしては、無用の戦を強いられた腹いせもあり、再仕置きにあっては、生半可な決意ではなかった。したがって、その処分は峻厳なものがあった。

 

伊達家記録二(35頁)

深谷集結の一揆衆の処置について、秀次から殊殺すべき指示があったため、「一揆の武頭20人余り人討果し」、首を秀次に差出し、塩漬けにして京都へ送った。

 

前沢町郷土史史料(58頁) 昭和47年5月 阿曽沼麿

柏山氏の没落

柏山氏も天正18年(1590)8月、秀吉の仕置に遭って所領を喪い居城を追放された。柏山中務少輔明宗の代であるが、明宗は仙北に浪人死亡した。その実弟で明助を後見した小山九郎も27歳で和賀郡で没したものであろう。後年慶長6年3月、柏山明助が南部信直の客分として和賀岩ケ崎に家士9人を率いて参陣した。明助は一族折居嘉兵ェ明忠と共に殊功を顕わし、一躍重臣の一人に登用され、岩城城代となったが、寛永6年に卒去した。明助の弟小山九郎兵ェ明知も22歳で死亡し、其の他皆若死にし柏山氏は断絶した。

 

前沢町郷土史史料(60頁)

検地の施行

秀吉の奥州仕置きによって、武士は領主の居住地に転任して、郷邑には武士が居住しなくなることと、郷邑に境界が出来て、その経済力は郷邑単位に明記される始末になった。この方法として太閤検地の施行である。