赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

八幡太郎義家が胆沢城から引き上げる際に夜襲を受けた場所は、奥州市水沢姉体「安久戸」現水沢競馬場

 

南都田村史 高山掃部長者 268

任期満了となり悠悠胆沢城からひきあげ帰国の途につき、真城の阿久刀に宿をとった晩,家来藤原光貞の陣屋が夜襲をうけ大混乱を来したので義家父子は大いに怒り、頼時に談判して下手人を出させました。

 

古代における胆沢開発史考 260

岩手県水沢市真城の折居も「阿久利(あくと)川=阿久戸」辺が馬産地であったらしく・・・

 

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阿久利(あくと)河

胆沢川から引く堰「茂井羅南堰」である。

※現在の水量は少ないが、当時は、胆沢川からの水口は水量調整ができないので、多量の水が流れていたと考えられる(著者)

真城と姉体の境目に、「茂井羅南堰」がある。東鶴巻など鶴がつく場所は湿地帯で、馬を放牧するにふさわしい地域であるという。この堰は、南町→水沢公園→胆沢体育館→若柳中学校→土橋→小歩の取水口へつながる。寿庵下堰→茂井羅南堰→鶴田水路→阿久利

この水路が大昔、阿久利河と云われていた。水田用、馬の放牧用に使われていた。人口の川である。