赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2022-01-01から1年間の記事一覧

陸奥話記1062年9月7日。源軍が白鳥に進軍、大麻生野と瀬原(白鳥館周辺)の2柵を攻め落とす

翌日7日、官軍は衣河の関を破り、胆沢郡白鳥村に進軍した。大麻生野と瀬原(水沢市前沢町白鳥館周辺)の2柵を攻め落として捕虜1人を捕まえた。この武者が言うことには「今回の度々の合戦の場で、わが軍の将の死者は数十人に上っている。この中には、あの…

陸奥話記1062年9月6日。源軍が貞任軍の衣河の関を攻撃

衣川の衣川関跡。高速道路付近 15 衣河関での攻防戦9月6日正午の時、将軍は安倍軍の高梨の宿に入り、即日、衣河の関を攻撃しようと思った。衣河の関は、元来路は狭く、その上足場が悪く険しいことで、この関を攻め落とすのはあの函谷関(中国河南省にあ…

陸奥話記1062年8月17日。磐井郡「小松の柵」安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の柵を源頼義軍が攻める

衣川の安倍宗任の叔父にあたる僧良昭の舘。小松の柵は磐井にある 陸奥話記13 清原氏の援軍を得て官軍反撃す頼義軍は、松山道を進軍して、南磐井郡の中山の大風澤に赴いた。翌日(17日)、同郡の萩野馬場に達した。この場所は、小松の柵を離れること、五…

赤生津安部出自が胆江新聞に連載。5月26日から

赤生津安部出自1から7報まで、5月26日から毎週木曜日、胆江日日新聞2面に50回で連載されます。 故安部徹良氏、故安部皓三氏、安部公良氏、森靜子氏の著者によりはじまります。

赤生津図(1698年)は、生江助内作「東山分間絵図」の写しか

一関市博物館より 赤生津 及川家所蔵より

日本三大穴堰「穴山堰」武兵衛穴

胆沢愛宕鹿合集落には安倍が密集。安倍貞任の兄弟の系統と伝える

胆沢川上流穴堰?は、沢を超える

胆沢のひめかゆ温泉を西へ、スキー場からカヌーの受付施設間にある

照井太郎が始めた胆沢川上流(現胆沢ダム)の穴堰。サイホンなど高度な技術を用いて日本三大堰に

安部外記介が務めた佐沼城(登米)。白鳥村照井舘の照井太郎が築く

登米市/【迫町エリア】佐沼城「鹿ヶ城」 (city.tome.miyagi.jp) 佐沼城は、平安末期の文治年間、平泉の藤原秀衡(ひでひら)の家臣、照井太郎高直(てるいたろうたかなお)によって築かれたと伝えられており、築城の際、鎮護(ちんご)のために鹿を生き埋め…

安部小次郎偽文書とどう向き合うか

以前より学芸員の方々より指摘されていた赤生津住民宛「安部小次郎宛葛西晴信感状」の偽文書について、真剣に向き合うべき時期がきたと感じています。岩手県史、前沢町史、市町村史にあるから100%信用できるというものでもなさそうです。偽文書の研究も並行…

白鳥八郎則任は、前九年後は大分へ流れ。比与鳥(江刺稲瀬)七郎が前沢に残る?

胆沢平野は安部一族拠点の衣川の軍事に必要な食料を確保するため重要な農地と見て、水路を引く工事に重点を置いたのではないか。 兄貞任とともに胆沢堰から白鳥川へ水を引く開発にあたっていたのだろうか。前九年後大分へ兄宗任とともに流される。その後、胆…

安倍頼時の子孫の行方は? 「安任 比与鳥七郎」とはだれか? 比与鳥村どこか?

【安倍氏シンポジウム】 宗任と則任は九州へ流され、兄弟はほぼ戦死。 「安任 比与鳥七郎」とはだれか? 比与鳥村?どこか 白鳥村の前身か? 【シンポジウム系図】 〇貞任 戦死 〇宗任 ※宗任は家臣と長男・宗良、二男・仲任それに三男の季任と共に筑前(福岡…

胆沢の堰は、照井太郎の前から安倍貞任が開鑿か? 胆沢に土着した安倍頼時の貞任兄日井(盲人)子孫

照井太郎の穴堰(現胆沢ダムから)とは

1100年代ごろ 胆沢ダム付近から逆サイホンで地中の穴をとおり、地表に出て小さな堰に流れる

安倍頼時七男「比与鳥七郎則任」に関する系図

【安倍氏シンポジウム報告書】 67P 安田弘氏貞享「安部系図覚書」 則任 比与鳥七郎 罪二●シテ 京師二至? 71P 安倍昌任氏貞享 系図抄

山ノ神屋敷 養蚕「かごわらだ」

「わらだ」と同じく竹製の「わらだ」を「かごわらだ」と言います。蚕の孵化から上簇までの期間、飼育に使われる道具で、竹を籠状に編んで使うことからこの呼び名があります。この「わらだ」に蚕と桑をのせ、繭になる直前までこの中で蚕を育てます。

山ノ神屋敷古文書⑥ 赤生津神楽台本

神楽の台詞などが書かれている。登場するのは、天照大神、素戔嗚尊、八岐大蛇など。 昭和戦前に、山ノ神屋敷11代安部貞美氏が、赤生津神楽で八岐大蛇を演じた。 「目録」とあることから安部家が神楽を習得したのではないか。 今回も、胆江日日新聞社の宮本文…

半世紀ぶりに祀られたか? 天明2年(1782)安部三左衛門(前畑屋敷③代)造立の法華経供養塔

天下和順が願われた。法華経の碑は復活した。 天下和順し日月清明なり、風雨時を以てし災厲起こらず。

山ノ神屋敷東側の「愛宕」 初代肥前の愛宕堂を祀るものか?

もとは山ノ神屋敷の北側にあり、昭和年代(戦前か)まで、神楽や相撲などで奉納されたという(万王氏)。戦後、県道わきに移され、納屋が建つ。山ノ神は残る。

山ノ神屋敷 初代安部平右衛門は宝暦9(1759)の頃

①平右衛門(妻) 宝暦9年(1759) ②義左衛門 文化5年(1808) ③幸之助 文化12年(1815) ④義右衛門 1周忌 文久1年(1861)

畑屋敷メモ

畑屋敷メモ 【吉田及川照男氏ききとり】 〇旧畑屋敷 現在の家屋の北側に広大な屋敷(養蚕業か?)あり 15代四郎兵衛(1846(弘化3)-1920(大正9))まで 〇近代の畑屋敷 現在の家屋の南側 16代幸蔵(1867(慶應3)-1943(昭和18)) 〇現在の畑屋敷 17代夘…

「『赤生津・安部氏』の出自を尋ねて」第1報から7報まで概要

「『赤生津・安部氏』の出自を尋ねて」研究概要 赤生津安部家には、衣川安倍頼時の七男を祖とする口碑伝承がある。 11世紀の古代末期、陸奥国北部に威勢を振るった在地豪族、安倍貞任や宗任、白鳥八郎などで名を馳せた安倍氏である。安倍頼時は平安時代の武…

山ノ神屋敷古文書?⑤一峰

山ノ神屋敷古文書④?「普通読本」

普通読本 明治20年4月11日から明治25年4月10日まで文部省検定済小学校教科用書

下屋敷古文書「鹿踊免許皆伝」

鹿踊免許皆伝

山ノ神屋敷古文書③「庭訓往来」

庭訓往来 9月 「庭訓往来」とは? 庭訓往来ていきんおうらい 中世後期から近代初頭にわたり普及した初歩教科書で、いわゆる往来物の一種。作者は僧玄恵(げんえ)との説もあるが不明。南北朝末期から室町前期に至る間の作とされている。進状・返状各一対ずつの…

養蚕で繫栄した「赤生津・安部」

赤生津下屋敷と山ノ神屋敷の所有する系図では、1600年代に赤生津安部家は1軒、1700年代には11軒である。本家畑屋敷系図の5代兵部(推定1645~1715)には「田畑請繁昌也」とある。前沢町史「赤生津村の養蚕」には、「宝暦3年(1753)から御百姓四郎兵衛が、…

「平泉・藤原氏」の時代は、安倍でなく「安部氏」

【「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第一報 岩手県奧州市前沢生母・赤生津地区における「アベ」姓世带数分布の特長】 中尊寺の金色堂の修理は、たびたび行われているが、明治三十年の修理時に、棟木に墨書が記されているのが発見され、金色堂は天治元年(一…

「赤生津7軒」伝説の畑屋敷は、第四代安部三四郎

元禄11年(1698年)赤生津村図(生母吉田及川照男氏所蔵) 慶長8年(1603年)徳川家康が江戸幕府を開いた後、慶長末頃には赤生津村には屋高は21軒あった。その後、借金、殺人などに関連した逃亡や逐電、また老衰、疾病、乞食で死亡するものなどがあり、屋高…