2021-01-01から1年間の記事一覧
北上川奥の左には、「白鳥舘と照井館」河の右には赤生津 岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14 【岩手県史4・26頁】 仙台管内村・城舘・城館主名及び在家表 平泉 高館城(藤原秀衡、後、源義経) 民部少輔基成のち義経、阿土城(安土日向守)
岩手県南史談会研究紀要「近世に於ける北上川舟運についてー東山・西岩井を中心としてー」八巻一雄氏 岩手県南史談会研究紀要「北上川の舟運と艜舟の難破」千葉明伸氏 大石家の記録から、赤生津の北上川の悪瀬(危険な所・場所)のため難破が多く、艜下り河…
キリシタン墓字の研究は近年はじめられた。 キリシタンが岩手県南史談会に取り上げはじめられたのが、研究紀要第15号(昭和61年)。山目円満寺檀家のキリシタンが多く、阿部随波も切支丹ではないかとという。「理解ある人々の解放資料」により証明してくれる…
【奥州市歴史遺産課担当】 白鳥邑「牛類」之舘は未見。白鳥邑には3館あるが、この名は見当たらない。(天正(1590年)のころ)当時の北上川は蛇行でなくほぼまっすぐであり、水制は必要ないのではないか。赤生津側岸の杭は土留め。系図には「午類」とも見え…
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証 1 概要 戦国期、衣川安倍一族の末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)の葛西氏家臣の安部氏は、外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍…
安部由緒書を所持していたのは、4代将監三男の分家でなく、将監三男の下屋敷の2代名からさらに分家した子孫で初代を「與傳治」という。盲目であったという。昭和年代に9代の壽平が家を閉じるときに、下屋敷に引き継いだものと考えられる。 ということは、由…
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証 1 概要 戦国期、衣川安倍一族の末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)の葛西氏家臣の安部氏は、外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍…
研究論文第1報から第6報の著者はじめ、赤生津安部家、赤荻阿部家、行政機関の皆さまに助言いただきましたことに深く感謝申し上げます。 (研究第1報から第6報著者関係)安部紀子氏、安部公良氏、森静子氏、安部完良氏 (赤生津安部系図提供・助言者)安部万…
葛西没落時の天正18年(1590)に白鳥舘と東館の住人は、地方史では、白鳥民部または治部と、安部小次郎である。安部外記之介の代から住していたとすると、当時は、安部外記之介(70歳)、上野(48歳)、大学(25歳)、豊前(10歳)の家族がいる。あるいは、…
【当調査】 地方史からいうと「安部外記之助」は赤生津に住しており領地は不明、その先祖も明らかでない。葛西没落後は、姻戚関係のある赤荻宮田城の荻荘家の地域に移住。姻戚関係というのは、外記之介が荻荘家の娘婿であり、妻鶴子は荻荘家19代の叔母にあた…
赤荻下屋敷系図覚書の安部左近の子孫は「赤生津安倍」とある。 赤生津安部系図の初代は「安倍肥前」、2代目安部市良左衛門。御百姓書出では初代安部十郎左衛門となる。 葛西没落前は、安倍氏を名乗り、天正18年(1590)から安部。さらに赤荻下袋屋敷は、帰農…
▼赤荻初代から4代までの墓碑の書き写し 赤荻安部初代は安部外記之助 天正18年(1590)7月10日没、3代大学は寛永12年4月9日没で弟は左近小次郎。墓碑には夫婦で戒名が刻まれているのが特徴。 ▼3代大学の弟安部左近で小次郎重綱の子孫(緑)は赤荻にいない。 ▼…
【概要】 古代末期、陸奥国北部に威勢を振るった在地豪族に安倍氏がある。11世紀半ばの頼時は「六箇郡之司」と呼ばれ、衣川関を本拠とし、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手のいわゆる奥六郡を事実上支配した。前九年合戦で源頼義の攻撃を受け、安倍氏一族…
【生母教育史】 この度、気仙出陣の処、その方雄略をもって悉(ことごと)く勝利を得、大慶の至りである。之に依り賞として磐井郡黄海村にて、五千苅宛行(あてが)うものである。仍って感状件(くだん)の如し。 天正16年6月7日 晴信(黒印)
▼白鳥舘の西の船着き場には、波除のためテトラポット(消波ブロック)のような水制が3本見られる。 ▼対岸の赤生津川には、水制用の杭と思われるものがある。 ▼これはイメージ。聖牛工 【聖牛工】 牛は、棟木の長さにより、「大聖牛」、「中聖牛」等に分類さ…
赤荻下屋敷阿部家にきく 安部外記之助の妻が赤荻の宮田城の出身であるという。外記之介の前の代は不明であるという。 大石喜清氏にきく 白鳥少輔一族との婚姻関係はあっても、大石家が白鳥氏ではない。白鳥氏は行方知れず。安部になったはなしもきいたことは…
赤荻下屋敷の初代安部外記之助の旧墓地内には、切支丹から改宗した「卍」墓字。享保16年(1731)。当主も知らない事実である。
【コトバンク 世界大百科事典第2版】 うしるい【牛類】 河川における水制の一種。日本独特のもので,その起源は奈良時代にさかのぼることができる。基本的には,杭状の部材を三角錐あるいは方錐体状に組んだもので,その形があたかも2本の角をもっているよ…
【原本に近い系図を所有していた子孫】 長根屋敷の西隣の下屋敷安部家が所有していたが、古文書の内容までは把握していなかったようである。及川照男氏にきくと、所有していたのは下屋敷でなく長根屋敷南側の安部寿平氏ではないか。戦後まで屋敷はあったがい…
▼赤生津初代安部肥前(小次郎、十郎左衛門)が白鳥舘からはじめて赤生津に移住した場所は、北上川と白鳥舘が見えるところ。 生母青木74 生母青木地内(畑屋敷から東に約600m)【愛宕堂跡】 18代嘉雄(2009没)の弟及川照男氏に聞くと、先祖から代々、正月…
安倍家系図 磐井東山赤生津邑畑家舗安倍家之系図 虫食古損二附書写叓 安倍頼時之七男比與鳥七郎則任衣川厨川西城落城ㇾ而之没降人成伊澤白鳥邑午(手)類之舘住居先室厨川之堀沈没(俊)室ヲ女取テ其子孫同所良久其後(俊)鎮守府将軍藤原之清衡ヨリ三代使エ…
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証 岩手県南史談会 高 橋 一 彦 1 概要 豊臣秀吉の奥州仕置による葛西没落後に、葛西旧臣から伊達家の家臣となった一族は多い。百石以上の家臣を網羅…
▼初代安部外記之助1590年(天正18)7月10日没 ▼2代 上野1635年(慶長17年)没 ▼3代 大学1635年(寛永12年)没 弟は「赤生津初代安部小次郎」 赤荻下屋敷阿部家 ▼下袋屋敷系図 覚書 赤荻の分家の詳細が記されている。 赤生津は「安部小次郎左近-赤生津安部…
【言い伝え】 奥州仕置きのころか。石巻から3人で逃げてきた。一人は日形(花泉町)へ行き、一人は赤荻に、一人は花巻へ逃げた。日形といえば黄海が近い、小次郎が葛西晴信からの知行宛行地である。先祖からの伝承である。 赤荻に逃げたのは、2代の上野であ…
白鳥氏家臣大石家 大石喜清氏にきく 2021.6.6 大石家の系図は、記録では寛永年間(1624-1645)に紛失とある。おそらく取り上げられた。明治になってから商人の手元から入手したという。仙台藩が廃止されたとき、廃棄書類あるいは、払い下げを、収集家が買い…
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証 高 橋 一 彦 1 はじめに 葛西没落により家臣から帰農、やがて伊達家臣に再起した旧磐井郡の安部一族がある。初代外記之介は軍功により葛西晴信か…
葛西没落の時、①赤荻下袋屋敷では、2代から4代まで3人が浪人、讃岐も浪人、②赤生津畑屋敷は、1代から3代まで3人が浪人となる。 赤荻下袋屋敷 直系 没 1590年時の年齢 1外記之助 天正18年7月10日 1590 70歳 2上野 慶長17年9月16日 1612 48歳 3大学【兄】 寛永…
安部小次郎の祖父外記之助(赤荻)は、軍功により葛西晴信より赤生津に五千苅を与えられた。赤生津東舘に住した安部小次郎も軍功により黄海村に五千苅を与えられたが、葛西没落により赤生津で帰農することとなる。一族は再起を願いやがては、小次郎の兄大学…
【岩手県史3・156】 戦功諸士への加増 気仙兵乱関係文書20余を中心として、その軍功に基く諸士への所領知行の跡を窺うと、この兵乱によって、諸士の所領が、あるいは没収、あるいは加増されたことが知られる。伝えられる文書、家伝によって見ると、登米・本…
【石巻市役所】 葛西晴信偽文書の研究者見解に従えば、正文は①香炉印の上部に二つの突起があり(偽文書にはない)、②香炉の腕が上部がしまり気味で肘が角ばっている(偽文書は開き気味である)、③香炉の底の横線も明瞭で地についている(偽文書は不鮮明)、…